第十四章「醜悪の世界」
胸の奥が悪くなるような嫌な感覚。
これが、俗に言う胸糞が悪い状態というのかもしれない。
ゆっくり、ゆっくり、光に負けないように慎重に持ち上げられた瞼は瞳孔に光を取り込んで小さく窄まる。────ような、気がする。
じわじわとやかましい蝉の音に苛立ちを向けながら奥歯を噛むと、ぎりっと軋むような音がする。
真夏のきらきらと輝く日差しが澄んでいて美しい。対比するように、おどろおどろしい影が真っ黒にそこだけを染め上げている。
開けた空間を撫でるように、生温い真夏の風が時折ゆったりと吹き抜けていく。
憎らしい、穢らわしい、浅ましい、いかがわしい、そんな色をした真っ黒な影。
理解してあげられるのは、自分しかいない。
そういう、気持ち。
「……ほら、おいで」
一瞬、そこら中で喧しく騒いでいた蝉の喧騒がしんとして、世界の一時停止をしたように空気が止まる。
甘く囁いた優しい言葉に誘われるように、ふわ、と自分の元にやってきた影は、憎しみと恨みと妬みと嫉みの感情を孕んで、真っ黒に染まっている。
ゆりは愛おしそうに、慈しむようにその影を抱き締める。自分のうちにそれが侵食するような感覚を覚え、背筋が粟立つのを感じて唇を結ぶ。
「……気持ち悪い」
そう呟いた言葉はぬるい風と共に空気に溶け、ゆりは深いため息を漏らす。
もう何度こうやって影を祓ったのかわからない。次第に自分が汚れていくような感覚と、元々汚れていたような感覚に脳みそが溶けそうになる。
『影をたくさん祓ったら、記憶を取り戻せる』
いつだったか旭がそう言っていたのを思い返しながら、ゆりはどう足掻いても思い出せない、あの虚無の空間で旭に出会う前の記憶に想いを馳せる。
旭と出会う前は、わたしはどこで何をしていた?ゆりって名前は、しっくりくるけど本当にわたしの名前?お母さんは?お父さんは?どこで生まれて、何をして生きていたの?誕生日はいつ?血液型は?本当は何歳なの?
わたしは、本当にわたしなの?
日が昇るといつもそれを考えて切なくなる。苦しくなる。眠れなくなる。
そうしていると旭がいつも手を握って頭を撫でてくれて、そのうち眠くなってくる。
旭はなんで自分に、と思わないこともないが、旭がいなくなるとここで「生きていく」術を持たない自分は一人になれないので、縋るしかない。
気持ち悪い。
帰ろう。
ゆりはゆっくりとその場から立ち上がる。屋上から見える開けた景色と、何かを成し遂げたかのような妙な清々しい気持ち。足元の世界が妙に騒がしいが、いつの間にか再開した蝉のざわめきに溶けてどこか遠くに聞こえる。
帰り道、いつぞやよりも人の往来が増えた景色を眺めながら足取り軽くゆりは旭の元に戻る。
昨日、影を祓った少し年季の入ったアパートの一室。
203号室、と掲げられた居室のドアを開くと、ギイっと軋むような錆びついた音と共に世界が死んだような不穏な空気に包まれる。
帰ってきた時に迎え入れるような、この絶望感がゆりは大嫌いだった。
日は傾きかけていて、散らかった室内に差し込む色は濃い橙色に染まり、その明かりを頼りに歩ける箇所を選んで部屋の奥に進んでいく。
「……まだ帰ってないのかぁ」
しんとした室内で癖のように独り言を呟きながら、ゆりは空いた箇所に座り込む。
一人でいると気が狂いそうになるのを耐えながら、空腹を誤魔化すように膝を抱える。
「お腹空いた」
なんで一人なの、どうしていないの、おなかすいた、さみしい、くるしい、たすけて。
ぽろっとゆりの双眸から雫が溢れ、褪せて燻んだフローリングに小さく染みを作った。
「……ゆり?」
どのくらいの時間が経ったのか、どのくらいも経過していないのか。『名前』を呼ばれ、はっと顔を上げた先に旭の姿があった。
その瞬間の強い安堵感にゆりは息を漏らし、縋るように手を伸ばすと旭はまるで幼子をあやすようにゆりの小さな身体を抱き竦めた。
「ただいま、遅くなって悪かったな」
妙に優しく耳障りのいい声音でそう言ってゆりの背中を撫でる旭の顔は、独占欲と充足感に満たされた、酷く醜悪な顔をしていたのだが、ゆりがそれを知ることはなかった。




