第十一章「齧る、落ちる、奪う」
結局、誰も私を愛してはくれない。
母は?どうして私を産んだの?父の事は愛していた?それとも、育ての父の事を愛していたの?
父は?どうしてにせものだとわかった私を育てたの?
ほんとうの父は?どうして、母と結婚しなかったの?母を愛していなかったの?
私は?私のことは?私のこと、誰か愛してくれた?
私は誰かを、愛していた?
このにんげんを、あいせた?
さいごにかけた言葉は、────
「ゆり」
はっ、と息を飲むような音と共に飛び起きる。旭はというと苦いような、渋いような、そんな顔をしながらゆりの顔を見ていた。
「…………あさひ、くん」
「また怖い夢でも見たのか」
怖い夢、そう、これは怖い夢。そう言い聞かせるようにゆりはきゅっと目を瞑り、先程の光景や声をかき消した。
「……大丈夫」
気丈に振る舞うゆりの頭を、小さな子どもをあやすようにぽんぽんと旭の手が触れる。子ども扱いされているようでどうにも癪に障るが、なんとなく安堵するような心持ちになるのもまた事実の様子で、ゆりは唇を尖らせた。
「少し出掛けてくる、留守番してろ」
「……またぁ?最近多くない?」
おシゴト?と首を傾げるゆりに少しバツが悪そうに目を逸らす旭。「いや」とだけ短く返すと、寝起きで乱れたゆりの髪をそっと整えるように撫でてから立ち上がる。
ここのところ、旭はよくゆりに留守番をさせて外出している。行先も、目的も何も告げない。ゆりにはそれが不満であり、不安であった。ただ、別に旭とは恋人でもなんでもないので、いちいち旭にそれらを確認するのが憚られる様子で多くは言わなかった。
「土産でも持って来るよ、いい子にしてろ。今日は何がいい?」
昨日は最中。
一昨日はみかんのゼリー。
5日前は、おまんじゅうとぬるくて甘い缶コーヒー。
リクエストをした訳ではなく、旭が「ほら」と持って帰って来たもので、毎回統一性はない。
「……くだもの」
「果物か、わかった」
そうして再度、ぽんぽんと頭を撫でてから旭はいつものように外出していく。ゆりはその背中を見てから、窓辺に移動し旭の姿を探す。姿は、もう見えない。
つけてやろうかと思ったが、留守番をしていろと言われたその言葉を律儀に守っている。
出掛けてやろうと思えば出掛けられなくもない。ただ、どういう訳か「留守番していなくては」という強制力のようなものに身体を縛られてしまう。理由はわからないし、知ろうとも思わない。
ゆりは雑然とした室内でも、比較的足の踏み場のある本棚の前に足を投げ出して座り、手持ち無沙汰に散らばった本を一冊手にしてページを広げて文字を追いかけた。
太陽の光は丁度真上から少し傾き始めたところで、西向きの窓から光が入り始める。
埃の積まれたテーブルの上に、埃とカビにまみれた食パン。飲みかけの缶ビール、リスペリドンと印字された中身が空の大量のPTPシート、引きちぎったような髪の毛の束と、毟られた爪の欠片のようなもの。
「…………キモチワルイ……」
ゆりの呟きは、ほんの半月ほど前まで生きる活力が巡っていた、埃とカビにまみれて腐敗した塊のみが聞いている。当たり前のように、返事をする事はない。
────旭が帰ってくる。
「……ふぅ」
小さくため息をついて、ゆりは眺めていた本をぱたんと閉じて元あった場所に置いた。
何故、帰ってくると思ったのかはわからない。ただ、その予感は正しく、ほんの数分も置かずに旭は「ただいま」
と声を掛けて帰ってきた。
「おかえりなさい」
「おう、ほら」
いつも通りの端的な相槌と共に差し出された桃。
ゆりは大切そうに両手で桃を受け取り、まるまるとした形をなぞるようにそっと撫でると、手に桃の産毛を感じ思わずぞわりと悪寒が走る。
口元が、手が、洋服が汚れる事も構わず、その果実に齧り付くと、じゅわっと果肉と果汁が口の中に爆ぜ、芳醇な香りと共に室内にまとわりつく。
ぐぢゅ、と熟れた果実の潰れる音と、果汁がぽたぽたと床に滴る音。口元に、口端に、指先を伝って腕に垂れ、肘の先からぼたっとたれていく。
こんなはしたない食べ方をするなんて、と頭の片隅では思っているゆりは、ほんの一瞬だけ戸惑いの色を見せながらも桃を貪る事がやめられずにいる。その光景を見て、旭は口角を持ち上げてにちゃりと笑みを零す。
「ああ、ゆり」
可愛いな、そうゆりの耳に届いたが、ゆりは答えなかった。
ただただ、頭の中で「違う」と言う自分のものと思わしき声が聞こえる気がして、手から食べかけの桃を落とす。
ぐちゃ、と、いつだったか聞いたことがあるような音が聞こえ、嘔吐感にゆりはベタベタに汚れた手で同じく果汁にまみれた口元を覆ってその場に蹲る。
「……やめて」
やめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめて
────キモチワルイ
こんなの、わたしじゃない。




