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ツンデレラ

作者: 滝尾竜二
掲載日:2024/04/18

「ツンデレラ」


 小春日和だった。そよ風がほおをなぶる。

 ここアナユキシア王国宮殿の中庭も小春日和と言えた。

 つまり変事はなにもない。

 ぼくはベンチの上で横になって大きく伸びをした。ついでにあくびをした。ついでにおならもしたかったが、それは沽券にかかわるのでやめた。子供の時から公の場でみっともない真似をしないよう、厳しくしつけられたからだ。

 「王子。暇そうですな」かたわらに立っている従者アキレスが言った。暖かい季節なのに王宮近衛兵の制服をきっちり着込み、青いスカーフを首に巻いている。

 「剣や乗馬の練習はいかがですか」

 「飽きた。面白いは面白いが、今日は乗り気でない」

 「王たる者は様々なことに明るくないといけませぬ。本日のお勉強は」

 「終わった。課題もちゃんとやった。今日はなにもやることはない。後は食べて寝るだけ」

 「それではまるでニートではないですか」

 「ニートで悪いか。だいだい王子って限りなくニートに近いよな。いわば父親に食べさせてもらって、あまり家から出られないし、勉強や趣味はいいけど仕事はさせてもらえないし」

 「仕事とおっしゃいますと」

 「料理とかまき割とかやってみたいのだが」

 「それはいけませぬ。あれは身分の低い者の仕事。王族がやることではありませぬ」

 「王族の仕事って、父上みたいに大臣の持ってくる書類に印鑑をついたりすることだろ。つまらないな」

 「そのようなことをいうものではありませぬ。もし王子が下々の民のような仕事をしてみれば、きっと「ああ、王子の方が良かった」とおっしゃるに違いありません」

 「そうかな」

 「ええ。それはもう」アキレスは目を大きく見開いて言った。

 「舞踏会をもよおして貴族たちと歓談し、常日頃から権力のつながりを保つお仕事もございます」

 「あれは最低だ。先月の舞踏会ではぼくにお追従を言っていた伯爵がその五分後には別の侯爵とぼくの悪口を言っていたよ。社交界というのは、嘘つきどもの集まりだな」

 ぼくはこの国の王族アナユキシア家の王子だ。名前をジークフリード・ラインハルト・アイスバー・フォン・アナユキシアという。長たらしいのでジーク、あるいはギークと呼んでくれ。

 ぼくは王子としては凡庸だ。まあ剣も乗馬も社交界の礼儀作法も一通りこなすが、一流の家庭教師がついて子供の時から習わされれば誰だってそれなりにはできるようになるだろう。ぼくには取り立ててすごい才能があるわけではない。ただし一つだけ妙な才能があり、それはふらふらと歩いて行った先で、人の密談を立ち聞きしてしまう、という才能だ。公にすると変態扱いされるので誰にも言ってはいないが。

 こんなぼくでも王様である父の一人息子なので、このままゆくと王様になる予定。

 アナユキシア王国はここ百年間、戦争はない。父を見ていても優秀な大臣が補佐についているから実際仕事と言ってもあまりやることもないし、わくわくするようなことは何もない。ぼくは敷かれたレールに乗せられてそのまままっすぐ進めば自動的に王様になって、毎日印鑑をついていればおいしいものが食べられ、快適な暮らしができる、というあんばい。

 「つまらないなあ」ぼくは大きなため息をついた。ベンチから片足を上げてふりまわすとぶかぶかの靴が一緒に左右に動いた。

 「この靴もぼくの運命みたいだな。おしゃれなだけでしまりがなくて、こんな靴では働けないけど王子の仕事ならなんとかなる、みたいな感じ」

 アキレスはあきれてぼくをながめたが、従者だから馬鹿にしたような態度はとらなかった。

 「人生こんなに簡単でいいのかなあ」

 「王子。そのままで自動的に国王になれるわけではありませんぞ。受験勉強は進んでいますか」

 「うわっ、嫌なことを思い出した」

 王子のぼくといえども自動的に国王になれるわけではない。年に一度の国王継承者資格試験(KKSSという)に合格しなければならない。

 「あれって王子がたくさんいて継承者争いを公平に解決する必要があった時代のものだろ。今の王子はぼく一人だからはっきり言っていらないよな」

 「アナユキシア王国の法律でございます」アキレスは大まじめな顔で言った。

 受験か。いやだなあ。


 ぼくは急に起き直って真面目な顔をし聞いた。嫌なことを忘れるには話題を他に変えるに限る。

 「そういえば、父上はどんな具合だ」

 「大したことはないようですが、ふせっておられます。よくもならないし悪くもなりません」

 「仕事が嫌になったのかなあ。引きこもりか」

 僕の父、つまりアナユキシア国王は先週から具合が悪く、ベッドから出てこない。かといって話ができないほどではなく、ときおり起き上がって執務をするが、歩き回ったりする元気はないようだ。医者は疲れがたまったのだろう、と言っている。

 「ちょっと見舞いに行ってくる」

 「それも次期国王の務めでございますな」アキレスが言った。

 ぼくはちょっと口のはしを曲げてから言った。「息子が父親を見舞うのに理由なんかないさ」


     *


 ぼくが父(つまり国王)の部屋に近づくと、話し声が聞こえた。甲高い声と父の低い声が話し合っている。甲高い声は大臣のものだ。大臣はアナユキシア王国の行政を一手に取り仕切っている有能な人物で、ぼくの父の仕事も彼の手腕がなければ、いろいろと大変なのは周りの人間から聞いて知っていた。

 どうしよう、邪魔かな。

 寝室のドアの前で一瞬ためらったとき、次のような言葉が聞こえてしまった。

 「ですから国王陛下。あなた様の身に万が一なにかあったときのことをお考えください」

 「うむ。わしも長くない気がする。この頃体の中の力が抜け落ちたような感じがするのじゃ。そちの言う通り後継ぎの重要さはよくわかっておる。じゃが妃選びに関してはあの子の気持を優先させたいと思っておる」

 「陛下。そのようにのんびり構えていてはいつのことになるやら。失礼ですが王子はまだ結婚に関してなにもお考えではありませんぞ」

 妃? 王子? ぼくのことが話題になっている。ぼくはそのまま聞き耳を立てた。

 「まああの子はまだ子供じみたところがあるからのう」

 「王族の結婚といれば古来から一族を強めるものと相場が決まっております。僭越ながらわが娘は貴族としての教育を受け、品位も血筋の申し分ありません。どうか陛下がお元気なうちになにとぞ両家の縁をお結びください。アナユキシア王国の一層の安泰を築くことがわたくしの使命と心得ております」

 うまいこと言うよね。

 王族ってこういうところが窮屈だ。レールの敷かれた人生。周りの決める結婚。ま、それに反抗するほどの気骨もないんだけどね、ぼくは。

 娘を王妃にして権力を握ろうとする大臣に対しても、ぼくは別に反発を感じなかった。まあ随分働いてもらっているし、いいんじゃない。

 国王が言った「では舞踏会でも開くか……。そうだ、舞踏会。それが良い。国中の妙齢の娘たちをすべて集めるのだ。そしてそこで王子に結婚相手を選ばせるがよい。それならば他の貴族たちも納得し、そちも権力の濫用とのそしりをまぬかれるであろう」

 「さすが国王陛下。素晴らしい案でございます」と大臣。

 「それではさっそく国中に触れを出せ。舞踏会はちょうど一月後の満月の夜に行う。誰でも、その夜に王子とダンスを踊ったものは妃となるであろう、とな」


 ぼくはため息をついてその場を離れた。


     *


 国王の命令が発布されればそれは勅令となり国の法律となる。王子のぼくがじたばたしても決まったことを変えることはできない。父に結婚を命じられたようなものだった。

 でも会ったばかりの女性をいきなりダンスに誘って結婚って、無理じゃない?

 相手の顔しかわからない。性格も好みもなにもわからないのに。皆が見ている前でその女性をダンスに誘って、そのまま結婚とか、うわあやだなあ。どうしよう。

 とぼとぼと王宮の長い廊下を歩く。思いは自然に話題の女性に移った。

 アンジェリカ、かあ。

 ぼくは彼女のすらっとした長身(ぼくより少し高い)や長いプラチナブロンドの髪、つつましやかにうつむいたほほえみを思い浮かべた。

 まあ、確かに彼女は美人だし、おしとやかだし、女性としてはAクラスだよな。でも小さい時から見ているし、なにかこう新鮮味みたいなものはないよな。もし彼女の秘められた別の一面とかを知ることができたら、あるいは彼女を女性として見られるのかもしれないが。

 僕が大臣の娘アンジェリカのことを考えて廊下の一番端まで歩いてくると、ちょうど突き当りの小部屋から話し声が聞こえた。今日はぼくの特殊能力大当たりの日だ。そんなに立ち聞きばかりしたいわけではないのだが。

 話し声は女性二人の会話だった。声でわかる。ちょうど話題にしていたアンジェリカとその小間使いが話しているのだ。別に盗み聞きしたいとは思わなかったが、会話の中に「王子」という単語が聞こえたので、ついその場に立ち止まってしまった。

 「ほんと、お父様ったらせっかちなんだから。今日王様から同意をとりつけたら早速午後のお茶会でわたしと王子のデートをセットアップするんですって。今日は河で舟遊びをする予定だったのに」

 「あら、お嬢様。でもまんざらでもございません? 王子はイケメンですし、穏やかな方らしいですわ」

 「そこよそこ! なんか育ちが良すぎてワイルドさがないのよねー」

 ええっ! ぼくは思わず身を乗り出した。あのおしとやかなアンジェリカがこんな口調で話をするのか。

 「わたし、もっと野性的な感じの人の方がいいのよ。しかも王子はわたしより背が低いし。なんか夫、というより弟って感じね」

 「まあ、結婚したら気も変わるのでないでしょうか。ちょっとは気になるのでございましょう? お嬢様」

 「いーえ」速攻否定か!

 「別に王子のことなんかぜんっ然好きじゃないけど、王妃になれるのなら、まあいいわ。いろいろと贅沢もしたいし」

 オウ、ノウ

 ぼくは顔を覆ってその場にしゃがみこんだ。アンジェリカの秘められた別の側面を見られた。見られたのはいいんだけど、その結果は全然よくなかった。今までのプラチナブロンドの髪やおしとやかさは全部見せかけだった。

 こんな女と結婚するのか。

 ぼくはため息をついてその場を離れた。女性に幻滅するのは初めてだったがその衝撃はそれなりに大きかった。

 かといって親たちがこの結婚を決めたら逆らうか、と言えばそれはない。生まれた時から王子として育てられ敷かれたレールに乗って生きてきたぼくには、そんな勇気はなかった。

 でも舞踏会で誰とダンスを踊るのか。一般人の女の子を選んだりしたらそれなりに面倒くさいことになりそうな気がする。アンジェリカ以外の貴族の娘だったら気心がわからないし、どうしよう。

 やれやれ。


     *


 ぼくはそのままとぼとぼと王宮の中をさまよって歩いた。ぶかぶかの靴がぽくぽくと音を立てた。

 王宮の迷路のような廊下をさまよっていつの間にかぼくは普段来ないような場所にやってきた。下働きの男や女たちも来ないし、王族も来ない。普段使わない客間が並んでいる。

 間隔を置いて甲冑やら壺やらが飾ってある長い廊下の横に空き部屋の扉が続いているような場所だった。

 一人きりになって物思いにふけるのにはいい場所かもしれない。そう考えてぼくは並んだドアノブの一つに手をかけようとした、その時。

 また部屋の中の話し声が聞こえてしまった。

 まじかよ。今日はなんて日だ。どうして連続して会話を立ち聞きしてしまうんだ。しかも芸能人のゴシップとかじゃなく、全部自分についての会話だった。

 他人の密談を盗み聞きする趣味はない。背を向けて立ち去ろうとしたぼくの耳に再び「王子」という単語が聞こえた。ぼくに関して誰かが話している。しかもこんな誰も来ないような場所で。

 そこでぼくは立ち止まって再びドアの近くにより、注意深く話し声を聞いた。こんどこそ驚いたことに、声はよく知っている人物二人の会話だった。さっき父に娘とぼくとの結婚をせまっていた大臣と、ぼくの付き人アキレスだ。

 「国王め。なかなかうん、と言わぬ。アキレス。あの毒で意思を奪うことはできんのか」

 「それは無理でございます。あの毒は意識はそのままで体の自由を奪うもの。徐々に衰弱し、立ち歩くことができなくなります。それから口がきけなくなり、そうして寝たきりになります。毒の分量を増やさなければ、ずっとそのまま生かしておくことも可能。殺すときにはちょっと分量を増やしてやればよろしい。決して医者にはわかりません」

 「見事だ。どこから入手したのかな」

 「それは、お教えできません。大臣様。毒の入手先がわからない間は、閣下はわたくしをご入用でしょう。ことが済み次第、死人に口なしではわたしも嫌ですからな」

 「ふん。用心深いことよ。だが、あまり時間がない。はやく娘と王子との結婚をしてしまわなければならんのだ」

 「それはまた、なぜでございますか。当初のお話ですと、死因が毒だとわからぬよう、ゆっくりゆっくりと何カ月もかけて投与して殺すはずでしたが」

 「あのバカ娘のせいだ」

 「アンジェリカ様」

 「あいつは去年の御前剣術大会の優勝者と恋仲になりおってな」

 「ペガサス殿」

 「今は腹の中に子供がおる」

 「なんと」

 「まあ、その優勝者というのはわが一族の者であるから問題はない。しかしこれが明るみになっては王子との結婚は無理だ」

 「当然ですな」

 「そこでなるべく早急に王子と結婚してしまえば、腹の子は王子の子ということになる。そのうえで王を抹殺し、子供が生まれたら今度は念のため同じ手で王子をやればよい。アナユキシア家の血は彼の代で絶え、わが家の者がアナユキシア家を継ぐことになる。むろん、幼い王子の後見人として摂政を務めるのはわしだ」

 「お大臣様。わたしも殺し屋ですが、あなたほどの巨悪にはかないませぬ」

 「誉め言葉と受け取っておこう」

 二人は低い声で笑った。

 「さて、長くなりすぎないうちにわしは執務室へ戻るぞ。くれぐれもわしと会っていたことは余人に気付かれないように気をつけよ」

 「もちろんでございます」

 部屋の反対側のドアを開けて出てゆく足音が聞こえた。

 オウ、ノウ

 アンジェリカが浮気? お腹の中に子供? それを知りながらぼくと結婚しようとしていた?

 そして大臣。あれほど国務をやりとげ国王の信頼厚い大臣が王家転覆を考えていた。

 今日はぼくの特殊な才能全開だ。でもその能力を使えば使うほど悪い状況になってゆく。

 ぼくはしゃがみこんだ。めまいがした。世界がひっくり返ったような気分だった。


 そうしてその場から動けなかったぼくの前でかちゃり、とドアノブが回る音がし、ドアが開いた。顔を上げたぼくの前に立っていたのは、アキレスだった。

 アキレスはびっくりしたような顔をしていたがただちに満面の笑みを浮かべて言った。

 「おや、これは王子様。こんなところでなにをされていたのですか」

 「い、いや。別に。考え事をしてふらふらと歩いていたら、ここまで来てしまったんだ」

 「どうしてしゃがみこんでいらしたんですか」

 「急にお腹が痛くなって。いや、もう大丈夫だから。ほんとだから」

 「医務室へいきましょう」

 「いや、いいからいいから!」

 手を貸そうとしていたアキレスの表情が急に変わった。古い付き合いだが、今まで見たことのない表情だ。ちょうど別の人格に入れ替わったみたいな。

 「王子様」

 「な、なんだ」

 「その顔だと、聞きましたね」

 「聞いてない。聞いてない! 本当だよ」

 「仕方ありません。それなら」

 アキレスは黙って腰の剣をさやから抜いた。

 「本当だったら。本当になにも聞いていないんだ!」

 「後で言い訳が大変ですが、死んでいただきます」

 アキレスはそのまま剣を振りかぶって襲い掛かってきた。

 「うわあー、やめろ! 誰か! 誰かー!」

 ぼくは叫んであとずさったが、長い廊下の端から端まで、人の気配もしない。

 アキレスの剣の一撃を下がってかわし、廊下に並んでいる鎧を引き倒した。アキレスは軽々と倒れてくる鎧をかわし、その上を飛び越えるとぼくに迫ってきた。さらに横になぐような一撃。ぼくはそれをかわしたはずみで尻もちをついて、そのはずみでもともとぶかぶかだったおしゃれな靴が脱げた。

 大上段から大きく振りかぶった一撃。

 「うわっ」ぼくは横に転がってそれをかわした」

 「なかなかすばしっこい。てこずらせないでいただきたい」アキレスはそう言うと素早くついてくる。ぼくは横っ飛びに飛んで、鎧からはずれて落ちていた剣を拾った。

 立ち上がって剣を両手で構える。それを見てアキレスはちょっと警戒の色を強めたがすぐに馬鹿にしたように笑った。

 「そんな気構えでわたしに勝てるとでも思っておいでかな、王子」

 ぼくとアキレスは剣を構え。互いの距離を保ったままその場をぐるぐると回った。

 ぼくが廊下の出口の方へ行こうとするとアキレスは巧みにその退路を断つような動きをした。

 駄目だ。戦わない、という選択肢はない。

 ぼくは仕方なく本気で生き残りをかけた戦いを始めた。互いに剣が交差し、キン、と鋭い音が廊下に響く。手が震えて剣をしっかりと持てない。剣の指導は受けたし、免許皆伝レベルの技術と評価されたが、練習と実際に殺されないようにするのとは大違いだ。

 ぼくはだんだんと追い詰められ、ついに壁を背にした。アキレスは落ち着いて剣を回すと、自分の剣でぼくの剣を巻き取るようにして跳ね飛ばした。ぼくの手から剣がもぎ取られ、宙に飛んでから後ろに落ちた。

 「いつもいつもくだらない愚痴を聞かされて心底飽き飽きしておりましたよ。なんの苦労もせずに生活しているくせに文句だけは一人前。生まれが良くてもあなたのようなくだらない人間はいくらでも代わりがいる。おとなしくここで殺されてしまいなさい」

 アキレスはひじを後ろに引き、剣の切っ先をぼくの心臓にまっすぐ向けたまま近づいてきた。

 「そんな! そんなこと一度だって言ったことはないのに」

 「馬鹿な世間知らずに話しても理解しないでしょう」

 「考え直せ。いや直してくれ」

 ふん、とアキレスはさも馬鹿にしたように鼻を鳴らした。

 「さようなら、王子」

 駄目だ。殺される。

 ぼくはなにかないかと手探りした。壁ぎわにかざってある壺が手に触れた。ぼくはそれを持ち上げた。かなり重かったが、火事場の馬鹿力。ぼくはそれを振り上げ、えいっとアキレスに向かって放った。

 アキレスは前進するのをやめず飛んできた壺を剣ではらったが、それが間違いだった。壺は剣では止まらず、そのままアキレスの頭に激突して床に落ちてから割れた。

 アキレスは棒のようにその場に倒れ、ぴくりとも動かなくなった。

 ぼくはいつ起き上がってくるかとアキレスの体から視線を離さないようにしたままそろそろと横に移動し、床に落ちていた剣を拾った。アキレスの手に握られていた剣を自分の持っている剣ではじいて遠くへやった。それからアキレスの体を剣でつん、つん、とつついたがそれでもアキレスは微動だにしない。

 「おい」

 声をかけたが、返事はない。

 ぼくは剣を構えたままおそるおそる倒れたアキレスに近づいて、手を口の前にかざした。

 息をしていない。

 死んだまねではないかとそのまま五分くらい待っていたがそんなに長く息を止めてはいられないだろう。

 ぼくはアキレスの体をひっくり返した。とても重かった。アキレスは目をかっと見開いている。ぼくはその顏をなるべく見ないようにしながら心臓に耳を当てた。

 心臓が動いていない。

 死んでる。

 死んだ。死んじゃった。ぼくが殺した。

 どうしよう。

 ぼくはあたりを見回した。誰もいない。

 ふと痛みに気づいて見ると腕から血が流れていた。気づかないうちに切られていたのだ。ぼくは辺りを見回し、アキレスの首に巻いてある青いスカーフを取って自分の腕に巻きつけた。

 誰かに相談しようか。でも誰が味方だろう。一番信頼していたアキレスは大臣のスパイで殺し屋だった。相談した相手がいきなり剣で襲い掛かってきたりしたらどうしよう。

 父は動けないし、みな大臣のいいなりだ。このままだとぼくが罪に問われる。

 ぼくは剣をがらんとその場に落とし、アキレスの死体からあとずさると、そのままその場から逃げ出した。


     *


 どこをどう走ったのかおぼえていない。気が付くと森の奥を馬で走っていた。

 あの後、ぼくは誰にも見とがめられないように馬に乗り、宮殿の裏門から出て、そのまま町の方へは行かず、細い道をどんどん奥へ行った。なるべく人里離れた場所が良かった。

 あたりは木々に覆われ、昼間なのに薄暗かった。王宮では聞いたことのないような鳥の鳴き声がどこからか聞こえてきて、それが不気味だった。昔、お供の者たちや侯爵や伯爵と一緒にキツネ狩りに来たときには、こんな不気味さは感じなかったのに、いまとなっては森はぼくを歓迎しない異質な場所だった。

 馬が走るのに疲れて、いなないた。ぼくはいったん休もうとしたが、遠くで狩人の上げる鹿追いの声が聞こえたので、再び馬の腹をけって先を急がせた。いまここを通ったことを人に見られるのはまずい。

 王宮ではぼくがいなくなったこととアキレスの死体とを結びつけて考える者がいるだろうか。

 そう考えてからぼくは舌打ちした。死体の現場にぼくの靴が落ちている。

 動かぬ証拠だ。そしてもし今戻ったら、なぜ逃げ出したのか、と問われるだろう。無実ならばなぜ逃げ出したのだ、と。あのときパニックに襲われて逃げ出してきてよかったのだろうか。しかし仮にあの場にとどまって大臣とアキレスの陰謀を説明したとしても、弁解は受け入れられただろうか。大臣はもっと別のところに手を回していて、ぼくはそのまま牢獄につながれるかもしれない。いったん牢獄につながれたら、立ち聞きした秘密の毒やなんらかの手段で暗殺されるかもしれないし、裁判にかけられ、死刑になるかもしれない。

 どちらにしても逃げたのが正しい選択だったか、残った方が良かったのかわからない。

 とりあえず逃げ出してしまったのだから、今は逃げられるだけ逃げよう。でもどこへ?

 ぼくはますます混乱して考えがまとまらないまま森を飛ばし続けた。

 空はどんどん暗くなり、鳥の声が騒がしくなってきた。もはや夕刻だ。

 森の奥深く、誰もいないような場所でとうとう馬が倒れた。大きくあえぎ、口から泡を吹いている。

 ぼくも限界だった。馬の隣に寝そべり、鞍の敷布を自分の体にかけるとその場に横になり、そのまま意識を失った。


      *


 朝起きるとすがすがしい空気がぼくの顔をなでた。

 窓を開け放しで眠ってしまったのか、とのびをしたぼくはそこが宮殿の自分の寝室ではないことに気付いた。同時に昨日の出来事全てを一瞬で思い出した。

 どうしよう。

 今さら宮殿には戻れない。かと言って行く先のあてもない。

 しばらく考えていたが、お腹がきゅる、と鳴ってから大変なことに気付いた。

 馬がいなくなってる。

 昨日こき使いすぎたせいか、倒れたままなにもしてやらなかったせいか、馬は元気を回復するとそのまま自分で立ち上がってどこかへ行ってしまっていた。あたりを見回したが、その影も見当たらない。

 あわてて逃げてきたから、剣も食料も、着替えの服もなにも持ってきていなかった。馬の鞍の下に敷く布だけを宮廷の普段着の上から巻き付けて、ぼくはまるで旅人か乞食のような姿になった。

 なにか食べるものを手に入れなくちゃ。

 ぼくは狩人が森の中で食べられる野草や木の根などを見つけるのを知っていたが、自分ではなにが食べられるものか、それをどうやって見つければいいのかわからなかった。弓矢もないから狩りもできない。

 ぼくはあたりを歩き回ったが、いかにも毒のありそうなあざやかな色のきのこくらいしか見つからなかった。やはり人里近くか炭焼き小屋へ行かなければだめか。

 ぼくは仕方なく森の中を歩き始めた。歩き始めてしばらくすると地響きが聞こえた。

 地面に耳をつけて聞くと、多数の馬の足音が迫ってくる。

 これほど多くの馬が一斉にはしっているのは狩人や普通の民ではない。追っ手かもしれない。熟練した追っ手ならぼくの馬の足跡を追ってくることができるだろう。

 ぼくは馬でも通れる道をはずれ、歩いてやっと通れるような狭い道を通ってさらに森の奥へと進んだ。しかし馬の駆ける音はどんどん近づいている。

 ぼくは焦って走り出した。やぶをかき分け、切り株につんのめり、服を枝に引っ掛けながらそのまま走り続けた。

 そうして馬の駆ける物音が遠くに過ぎ去ってしまうまでかけ続けた。

 そうしてかけ続けているうちに、自分が森のどのあたりにいるのか、全く分からなくなってしまった。アナユキシア王国の中であるのは間違いないが、おそらく辺境諸国との国境に近いのではないか。領地の中とは言え、みながみな自分の顔を知っているわけではない。もとから社交界とか式典とかが嫌いで公の場にあまり顔を出さなかったから、ぼくの顔を知っている国民は少ないのだ。今回の場合、それが幸か不幸かわからないが。

 朝方なのに空が暗くなってきた。

 お腹がきゅーきゅー鳴っている。

 ぼくは暖かい朝食の乗ったテーブルを思い出してちょっと泣きそうになった。あのまま平和な日々が続いてくれていれば、今頃ぼくは平穏すぎる生活に愚痴をこぼしながら、おいしいものを食べ、暖かいベッドで眠れたのに、今はおたずねものとして逃げ回っている。すべてを投げ出してそのままそこにごろんと横になったら問題が解決すればどんなによいか。

 それでも歩き続けなければならない。動かなければなにも得られない。

 空がだんだん黒くなってきた。

 空気は冷たくなり、遠雷が聞こえた。

 大木を背にして休憩する。息が切れ、どっと疲れが襲ってくる。

 足跡は残していないだろうか。

 自分のたどってきた道を目を細めて調べる。

 そうして視線が自分の足元まで来たとき、気が付いた。

 血が出ている。

 はだしの両足が、長いランニングに耐えきれず、あちこち擦り切れ、赤い線が引かれている。

 頭が熱いせいだろうか、痛みは感じない。

 ぱき、と森の奥で音がした。はっとそちらを見やるが何の影も見当たらない。

 それでも空の暗雲と同じように心の中に沸き上がった不安に追い立てられ、ぼくは疲れた体に鞭打って再び走り出した。

 木々の切れ目が増え始めた。森はもうすぐ終わりだ。

 森から走り出たところで大粒の雨が降り出した。打ち付けるような雨粒は痛いほどだ。

 馬の敷布を頭の上から巻き付けたが、雨水はそれを通してたちまちのうちにぼくの衣服に入ってきた。下着までどっしりと濡れるとさすがにとてもみじめで嫌な気分になった。お腹がすいているのと相まって、体がどんどん冷たくなってゆく。

 服は肌にへばりつき、下着の中まで冷たくなる。

 このままだと風邪をひいてしまう。どこかで雨宿りする場所を見つけなきゃ。

 あたりを見回したが、大岩や大木のようなものはない。

 見上げると小高い丘の上に大きな洋館があった。つたに覆われ、古びてはいるが由緒ある家の者が住んでいたような重々しさがある。

 廃墟だろうか。

 よく目を凝らすと、その洋館の一角から煙が立ち上っているのが見えた。

 人が住んでいる。

 ぼくは少しためらった。ここにいる人は安全だろうか。しかしあまり選択の余地はなかった。ぼくは勇を奮い起こして正面玄関に近づき、大きな木の扉の真ん中についている真鍮のノッカーを叩いた。

 ノッカーを叩いてしばらく待ったが中から応答はなかった。

 ぼくは扉の真ん中を押すと、それは動いた。ちょっとだけ頭を差し込んでみる。中は暗い。

 「すみませーん。旅の者です。雨宿りをさせてください」

 返事はない。

 しばらく沈黙の後、ぼくはもう少し扉を押し開けた。歴史を感じさせるぎいーっという音とともに扉が開いた。

 どうしよう。他人の家に無断で入るのはまずいけど。

 どーん。と雷鳴が鳴り響き、いきなり吹き降りが強まった。

 ぼくはびっくりしてすくみ、それから雨足に押し込まれるようにして扉の中に入った。

 薄暗がりに目が慣れるとそこが玄関ホールなのが分かった。正面に大きな階段があり、まっすぐと二階へ続いている。右側に石造りの暖炉がある。

 「すみません! 旅の者ですが、道に迷ってしまいました。雨宿りをさせてもらえないでしょうか」

 大声で叫んだが、返事はない。

 突然気づいたがぼくの体は冷え切っていた。足ががたがたと震えだす。

 火をたかなくちゃ。

 ぼくは暖炉に近づくと、火をつけるものを探した。暖炉の横に宝箱のようなふたつきの箱がある。マッチを探してぼくは箱を開けた。やはり中にマッチと火口ほぐちに使うわらの束があった。

 ぼくは慣れない手でなんども失敗してから暖炉のまきの下に火口をセットし、火をつけた。火は燃えあがり、それとともにぼくの心も明るくなった。

 ふう。

 箱を背もたれにして暖炉の前に座り込み、落ち着いて辺りを見回すと、ここが大変由緒ある館なのがわかった。暖炉はがっしりして大きく、玄関ホールのすみにはいくつか甲冑が飾られている。天井には絵が描かれている。

 床に塵は積もっていない。ということは人が住んでいるんだ。でもよく見るとあちこち蜘蛛の巣がかかっている。人手が足りないのだろうか。

 こういう古い館には魔物が住んでいる、というおとぎ話を思い出してぼくはちょっと身をすくめた。

 ぎい。

 背後で音がして、ぼくはびくっと飛び上がった。そろそろと後ろを向く。だんろの炎は広いホールの奥まで照らすほどには明るくない。その奥の闇を見つめていると、突然白い何かが闇に浮かび上がった。

 (きゃっ)

 思わず叫びそうになったが、心の中だけで済んだ。仮にも王子としての体裁がある。

 しかしぼくは無言で思い切り足を突っ張って背中を箱に押し付けた。

 その白いものは小さな白い顔だとわかった。

 大きな目。白磁のように白い顔に大きな緑色の目がある。虹彩は薄いブラウンでその中にぼくの顔が映っている。たぶんぼくの目の真ん中にも彼女が映っているのだろう。

 ぼくはその瞳を見たまま、話すことを忘れるほど、長い間座っていた。

 そうしてしばらくの間、ぼくたちは互いの顔を見つめていた。

 「どちらさま」白い顔が消え入るような声で言葉を発した。

 その声を聞いて、ようやくぼくはこれが人間の女性だと気づいた。

 「あ、あのっ、すみません。旅の者ですが、突然の雨でびしょぬれになってしまって」

 ぼくは必死に弁解し、立ち上がって彼女に近づこうとしたが、その女性はびくっとして後ろに下がった。それでぼくは自分がここでは不審者であることに気づいた。

 「フェアリー! なにしてるんだい」

 館の二階から甲高い声が響くと、その女性ははっとしたように振り返り、上に向かって言った。

 「旅の方です。困っているみたい」

 「旅の方あ?」声の主は階段を下りてきた。背の高い中年女性だ。祭司が着るような不思議なデザインの衣装を着ている。中年女性は上からぼくを見下ろすと命令口調で言った。

 「名前は?」

 「はい。ジーク……、い、いえ、その、ギークです」ぼくは気おされて答えた。

 中年女性はぼくをじろっと見、それから少し空いたままの扉と開けっ放しの宝箱をちらっと見た。

 「旅の者だって? どこの町の人間だい?」

 「あの、えと、王都です」

 「じゃあ、都会人だね。あんたの家では勝手に扉を開けて他人の家に入っちゃいけない、とか、勝手に他人の家の中にある箱を開けたり壺を割って中身を着服したらいけないとかの教育はうけなかったのかい」

 「すみません」ぼくは消え入るような声で言った。返す言葉もなかった。

 中年女性の甲高い声が天井まで響き、それに応じて「なになに」という複数の声が二階から聞こえ、どたどたという足音とともに二人の女性が現れた。

 二人とも十代の終わりか二十代初め。年長の方は一目で中年女性の娘とわかる金髪碧眼の女性で中年女性と同じようなデザインの服を着ている。それより少し若い女性は浅黒い肌に黒髪でポップデザインのTシャツにジーンズをはいている。二人ともじろじろとぼくを眺めた。

 「だれこれ」「あらイケメン」騒がしい。

 改めて最初に出会った女性を見ると、先の二人よりもさらに若く、少女と言ってもいい年齢に見える。短い黒髪と東洋系の顔立ちをしている。召使の着るような粗末な服を着ているが、大きな目と白い顔で三人の娘の中で一番目立つ。ドレスを着せれば貴族の女性といっても十分通じる美しさだ。ただ、ぼくを見つめる顔は無表情で友好のかけらもなかった。

 「扉のところで声をかけたのですが返事がなかったため勝手に中に入って大変失礼いたしました。旅の途中で馬と荷物をなくし、雨に打たれて困っています。一晩でいいので泊めていただけないでしょうか」

 「荷物をなくしたんだね」中年女性はぼくを値踏みするようにながめた。「ここは女しかいないんだよ。見知らぬ男性を館の中に泊めるのはちょっとね。もし馬小屋でいいなら泊めてやらないでもないけれど」

 「あ、はい。それで結構です」ぼくはあわてて言った。

 「あたしがここの女主人だよ。マダム、とお呼び」

 「わかりました。マダム。あの」

 「なんだい」

 「なにか食べるものをいただけないでしょうか」

 マダムはフェアリーと呼ばれた少女に命じてぼくに食事を用意させると自分は二階へ上がってしまった。奥の台所で粗末なパンとチーズに水が与えられた。ぼくはお腹がぺこぺこだったのでむさぼり食ったが、正直王宮での食事とは比べ物にならないくらい粗末な食事だった。

 フェアリーはどこかへ引っ込んでしまったが、他の二人の女性は好奇心丸出しでぼくが食べるのを眺めていた。

 「ね、ね、あんた。王都ではどういう仕事してるの」ポップデザインのTシャツを着た方がたずねた。ぼくの顔をのぞきこんでくる。

 「ええと、モデレーターというか、折衝関係の仕事です」王子は国政の調整役だからあながち嘘ではないだろう。

 「わあ、カタカナ職業なんだ、かっこいい!」浅黒い顔に黒い眼をきらきらと輝かせてテーブルに肘をつく。「王都ではゲームも盛んなんでしょ。あたしもプロゲーマー目指してるんだけど、ここは田舎でネットが遅いから対戦しても不利なのよね。ね、あんたゲームする?」

 「え、はい。まあ」ある程度はするが、それほど好きではない。

 「王都でゲーム、いいなあ。あたしもいつか王都に出て行ってプロになりたい」

 「あんたは黙って」年上の金髪がさえぎった。ぼくの目を見て話す。「あなた、イケメンね」

 「どうも」

 「育ちがよさそう。もしかして貴族?」

 「いえ」

 金髪はがっかりした様子を見せた。「なーんだ。貴族じゃないのか」


     *


 食事が終わるころを見計らったかのように、フェアリーが現れた。

 「こちらへどうぞ」

 ぼくが案内されたのは裏の馬小屋だった。馬はいないが乾いた干し草が敷き詰められ、清潔だ。すみにお湯を張ったたらいが置いてある。

 「これで湯を浴びてください。終わったら声をかけて」フェアリーはぼそっと言うと部屋の外へ出て行った。

 「あ、ありがとう」場所は粗末だが、王宮のようなもてなしだ。

 ぼくはたらいの湯をひしゃくですくって体にかけ、汗を流した。わきには着替えも用意してある。弁護士の着るような服だ。ぼくはそれを身に着けると、フェアリーに声をかけた。

 フェアリーはほうたいとびんを手に現れた。

 「上着を脱いでください」

 「え」

 「変な想像しないで。腕を手当てします」

 そういえばアキレスに切られた傷があったんだ。

 「よく気が付いたね」

 「見ればわかります」

 「いや、助かるよ。きみは……」

 「黙って」フェアリーは義務を果たすかのようにてきぱきと軟膏を傷口にぬり、包帯を巻くと立ち去ろうとした。

 「あの」

 「ここは昼食は出ません。夕食は日が暮れてから。それじゃお休みください」

 「ありがとう」

 フェアリーは無言のまま立ち去った。ぼくはその後ろ姿を見送ると、干し草の上にゆっくりと寝そべり、そうしてそのまま意識を失った。


      *


 気が付いたら朝だった。

 夕食を食べはぐれたが、十分に休息をとり、全身に力がみなぎっている。

 ううん、と伸びをしてから格子窓のすきまから外をながめると森が目に入った。遠くで狩りのほーいほーいという声が聞こえると一瞬で緊張感が戻ってくる。

 ぼくは逃亡者だった。いまうかつに外に出ていかない方がいいかもしれない。

 大広間に出ていくとちょうど館の女主人が床掃除の指示をしているところだった。フェアリー一人がモップを手に床を拭いている。上の二人の姿は見えない。

 「マダム。おはようございます」

 「あら、昨夜はよくお休みだったわね」

 「ありがとうございます。疲れがとれました」

 「けっこうですこと」

 「ところでマダム」

 「なんでしょう」

 「昨日お話した通り、旅の途中で馬と荷物をなくしてしまいました」

 「それで」

 「お礼をしたいのですが、持ち合わせがありません。いったん家に戻って後でお金は持ってきます」

 館の女主人は突然態度を変えた。

 「それは駄目だね」

 「必ず、お約束いたします」

 「その証拠は?」

 「わたしの言葉では」

 「どこの馬の骨ともわからない者の言葉が信用できるかい? この国では無銭飲食は牢屋入りだよ」

 ぼくはあらかじめ用意していた覚悟を飲み込んだ。

 「それでは食事と宿の代金に、家事をします。どうかしばらくここにおいてください」

 「それは使用人のような雑用をする、ということかい」

 「はい。なんでも言いつけてください」

 「ほんとかい。あんたは何ができるんだい」

 「なんでもやります」

 マダムは疑わしそうな眼付きでぼくをながめた。特に傷一つない手を見つめた。

 ぼくはきまりが悪くて手を後ろに回した。正直、家事などやったことはない。あるのは経験ではなくやる気だけだ。

 「そうかい」マダムは腕を組んで横を向いた。

 「もしお前がアナユキシア王家の者だとか、逃亡犯とか、足が臭うとか、剣や乗馬は上手いが料理・洗濯・掃除はどれもだめとかでなければ置いてやってもいいよ」


 図星だった。


 「はい! 大丈夫です!」大嘘だったが、ここにおいてもらうためには仕方ない。


 「それで、お前をなんと呼べばよいか考えていたのだけれど」マダムが言った。

 「えと、ギークでいいです」

 「だめよ」いつの間にか現れた浅黒い肌の女性が言った。「ゲーマーとして「ギーク」なんて名は許せない。少なくともわたしにゲームで勝ってから名乗りなさい」

 面倒くさい人だな。

 「じゃあ、「シンデレラ」はどうだい。わたしの故郷の言葉で「はだしの」という意味だよ。ここにはだしで現れたからね」マダムが言った。

 「シンデレラ、ですか」ぼくが考え込んでいるうちにマダムは言った。「じゃあ、シンデレラボーイ。よろしく頼むね」

 「シンデレラボーイは長ったらしいわね。じゃあボーイ、頼むわね」浅黒い肌の女性が言った。

 「ボーイ。早く洗濯して」

 「ボーイ。掃除をするのよ」

 ぼくは王子なのだけれど、館ではボーイと呼ばれることになった。


      *


 「王子は、王子はまだ見つからんのか」

 広間に大臣が部下を叱咤する声が響く。

 「はい。馬を追いましたが、跡を見失いました。のちに馬だけ見つかりましたが、王子の行方は知れません」

 別の兵士が言う。「アキレス殿の死因はショックによるものだそうです。剣で戦った様子があり、現場近くにこれが落ちておりました」靴を差し出した。

 「アキレスめ。なにがあった。まさか……」大臣の額に汗がにじんだ。

 しばらく考え込んでいた大臣はきっと顔を上げると甲高い声で命令を下した。

 「王子はご乱心の可能性がある。一刻も早く保護せねばならん。このことは国王には伏せておくように。お体に触るかもしれないからな。王子が失踪したことは秘密にしたまま何としてでも王子を見つけ出すのだ。舞踏会が始まるまでに」

 「はっ」兵士たちは出て行った。


     *


 ぼくの仕事はさっそく始まった。

 朝いちばんに起きたつもりだったが、台所に出てゆくとすでにフェアリーの姿があった。

 かまどに火をたき、フライパンの上で卵をかき混ぜている。

 「おはよう」ぼくは元気に声をかけた。

 「おはよう」やっと聞き取れるくらいの返事が返ってきた。

 ぼくは台所をざっと見まわした。なべや食器が整然と棚に並べられている。洗い物はないようだ。

 「ちょっとそこの棚から塩をとって」フェアリーの指示でぼくは棚から塩をつぼをとった。そのままフェアリーの後ろにあるテーブルに置く。

 フェアリーが卵をかき混ぜるのを見ながら手持ち無沙汰だったので、スプーンを取り上げると塩をひとさじぱっとフライパンに投げ入れた。

 「なにするの!」フェアリーが鋭く叫んだ。

 「えと、味付けを」

 フェアリーはフライパンを火からおろしてテーブルに置き、味見した。ちょっと顔をしかめるとそのフライパンは置き去りにしたまま、新しいフライパンを取り出して別の卵を料理し始めた。

 「あの、まずかった」

 「まずかった」

 ぼくは却下された卵料理をちょっと味見してみた。

 ぐはっ。しょっぱい。

 「ええと、これ、塩を取り去れば大丈夫かな」

 フェアリーはきっとこちらをにらんだ。「あなた、料理をしたことがないの?」

 「うん、まあ、もっぱら食べる方専門で」

 「入れた塩を後から取り去るなんてできるわけ……あ」そこまで言ってフェアリーは突然なにか思い出したような顔をした。

 そのまま無言で新しい卵料理を作り出す。

 横顔は不機嫌そうだ。

 「あの、えと、ごめん。怒ってる?」

 「いーえ」

 「やっぱり怒ってるよね」

 「不機嫌なのはあなたのせいじゃない」

 「え?」

 「いいのよ。あなたには関係ない。わたし個人の問題だから」

 ぼくはなにがなにやらわからなかった。

 紅茶とトーストと卵料理をおぼんに載せ、フェアリーは二階へ行った。

 「あなたは男性だから、二階へは立ち入り禁止」

 「うん。ほかの人たちは?」

 「うちでは朝食はベッドでとることになってるから」

 そうなんだ。貴族の家庭だな。

 「あの二人の女性はだれ? 金髪の人はマダムの娘だろうけど、あの浅黒い肌の女性は?」

 「二人ともマダムの娘よ。父親が違うの」

 この館であのマダムが女主人。あの金髪が長女。あの肌の浅黒いのが次女。家族みたいにしていたけど。そしてこのフェアリーが召使なんだ。男手がないといっていたからご主人は遠くで働いているか、亡くなったのだろう。なんにせよこの広い館と三人の女性の世話をフェアリー一人でやっているのなら大変だな。

 「きみは召使なんだね」

 「わたしは三番目の娘」

 「そうか。きみは姉妹の中で一人だけ働かされている。きっと連れ子で継母にいじめられているんだね」

 「違うし。実の母親だし」

 フェアリーが去った後、ぼくはいろいろと想像をめぐらせた。


 朝食が終わるとそうじだった。これはぼくでも手伝える。フェアリーが持っているバケツとモップを取り上げて、ぼくは大広間の床を拭き始めた。フェアリーはしばらく見ていたが、とりあえずぼくが仕事ができているのを見ると家具の拭き掃除を始めた。家具のあちこちに蜘蛛の巣が張ってある。フェアリーは家具の上や横にある蜘蛛の巣を拭いている。家を壊された蜘蛛がフェアリーの手に登りかみついた。

 「つっ!」フェアリーは手を押さえたが、蜘蛛は殺さずぞうきんで払っただけだった。

 「蜘蛛が怖いの? 代わりにぼくがとってあげようか」ぼくはそう言いざま蜘蛛を叩き潰そうと手を上げたが、フェアリーに止められた。

 「え、なんで」

 「殺しちゃだめ」

 「だからなんで殺しちゃだめなんだよ。また巣を張るよ」

 「うちでは蜘蛛は殺さないことになってるの」

 ふうん。

 「でも痛くないかい」

 「痛い。毒もあるし」

 「えっ! 大丈夫なのか」

 「もう慣れた」

 とりあえず、ここではぼくはよそ者だから、ここでのしきたりに従おう。

 ぼくは床拭きをつづけた。


 ぼくはモップを押して大広間の端からはじまで駆け抜けた。

 「ひゃっほー」子供にもどった気分だ。

 ぼくは調子に乗って段々スピードを上げた。階段のわきでクイックターンをかませる。

 そうして三度目のターンをきかせようとしたとき、階段の下の、他となんの代わり映えもしないように見える場所で滑った。

 すてーん、と転ぶ音がしたような気がしたが、そのままぼくの足はバケツを蹴飛ばした。

 ガッシャーン、ガラガラガラ

 音を聞いてフェアリーがやってきた。大広間を見渡す。ぼくも見渡すと今まで拭いた場所がすっかり水浸しだった。

 「やり直しね」はい。

 照れ隠しにぼくは自分の滑った場所を確認した。「おっかしいなー。ここ、普通に見えるのに滑るんだよな」

 そうしてさっきの場所に足を乗せたとたん、再びぼくの足は滑って見事に転んだ。

 「いてて」頭をかきかきしりもちをついたままぼくが見上げると、フェアリーはまた嫌そうな顔をしていた。

 「ごめん。怒った? すぐやり直すから」

 「いいの。あなたのことを怒っているわけじゃないから」

 「でも怒ってるよね」

 「あなたには関係ない」

 立ち去ろうとしてフェアリーはもう一度向き直った。「言い忘れていたけど、その場所は必ず滑るの。気を付けて」

 おそいよ。

 「ゴム長靴かなんかあれば」

 「いいえ。なにをしても無駄。滑るようになっているから」

 「なんで? 薬かなにか塗ってあるの」

 「いえ、魔法で……」言いかけたフェアリーは口を「あ」という形にすると、そのまま後ろを向いた。

 「え、魔法?」

 ぼくの問いには答えず、フェアリーはそのまま奥に入っていった。


 お昼近くになるころ、ぼくとフェアリーは中庭にいた。

 フェアリーは洗濯をしており、ぼくはまき割りを任されていた。最初はフェアリーの洗濯を手伝ったのだが、絹のブラウスを伸ばしてしまってからフェアリーはぼくの手から衣類を取り上げ、洗濯は任せてくれなくなった。

 中庭には薪割り用の切り株があり、すぐ横には薪小屋があるが中は空だった。どうやら女手だけでさすがに薪を準備できなかったらしい。冬はどうしていたのだろうか。ぼくは転がしている丸木を薪の長さにのこぎりで切るところから始めた。すぐに全身が汗びっしょりになり、手が痛くなった。

 (今日はこれ一本だけやればいいや)

 ぼくは一本の丸木を七つに切りそろえると一つを切り株の上に立てて斧でえいやっ、と切った。丸木は二つに割れてからん、と音を立てて両側に落ちた。

 「剣士のような切り方だね」

 どきっ!

 いつの間にやらマダムがぼくの背後に来てぼくの仕事ぶりを見ていた。ぼくが斧を振るう手つきのことを言っているのだろう。ぼくは薪割りをしたのは初めてだからどうしても王子として訓練を受けた剣と同じような振り方になってしまう。素性がばれてしまうだろうか。

 ぼくはこわごわマダムの顔を見たが、マダムはちょっと満足そうな顔をするとそのまま去ってしまった。

 ぼくは薪割りが満足いく結果なら自分を館に置いてくれるかもしれないと考えて、もう少し頑張ることにした。

 お手洗いに行くために薪割りを抜け出して館へ行くと、マダムと長女の声が聞こえた。

 「ボーイはどう?」

 「ありゃどこかの貴族のおぼっちゃんだね。なぜ家出したのかは知らないけれど、元の家では探しているはずだよ。うまくすれば名家に感謝され金をもらえるかもしれない。じきに正体をあらわすだろ」

 どうやらぼくが王子だということはばれていないようだ。アキレスが殺され、ぼくが失踪したことはまだニュースになっていないのだろうか。


 その晩、ぼくは疲れて夕食も食べずに倒れこむように眠ってしまった。なにもわからなかった。

 翌朝、馬小屋の格子窓から差し込む朝日がぼくの顔をまともに照り付けて、ぼくは起きた。見ると毛布がかけてある。ぼくは大きく伸びをした。

 いてててて!

 ぼくはのたうち回った。全身の筋肉という筋肉が悲鳴を上げている。慣れない家事をやったため、いつもは使わない筋肉を酷使したのだ。

 ぼくが這いずるようにして台所へ入ると一人分の食事がテーブルの上に置いてあった。

 ぼくの分……だよね?

 ぼくがそれを食べ終わるころ、フェアリーが現れた。

 「今日は買い物に村へ行くから、付き合って」

 「はい。荷物運びだね」

 「そう」

 村まで行けばぼくの捜索隊が出ているかうわさが聞けるかもしれない。

 買い物のときになにかで目立ってしまい、追跡者の手がかりとなる噂のたねとなる。

 ぼくはフェアリーの後について歩いていた。館の住人は馬も持っていないので歩くしかない。しかし馬の世話をするのはそれはそれで大変だから、女性たち四人では難しいかもしれない。特にそのうちの三人がほとんど働かないのであれば。

 村へはけっこうな道のりがあった。朝出発したのに、ついたら昼近くなっていた。

 フェアリーについて肉やら野菜やらを買い込んで背負うと重かった。今まではどうしていたのだろう。

 最後にジャガイモの大袋を積み上げたところでぼくは文句を言った。

 「いくらぼくが男だからって、これを担いで館までもどるのは大変だ。荷馬車を雇おう」

 フェアリーはにべもなく答えた。「そんなお金はないの。荷馬車を雇うのならあなたが支払って」

 「う」ぼくがお金を持っていないことを知っているのに。

 「今までは君たちが買い出しに来ていたんだろう。もっと常識的な分量を買ってくれよ」

 「あら。なんでも仕事しますって言ったじゃない」

 「だーけーどー」

 「男のくせに弱いのね」

 「王都じゃ力仕事をしていたわけじゃないんだ」

 ぼくたちの言い争いを聞いて村人たちがひそひそと話していた。

 ぼくはそのことにはっと気づくとけんかをやめた。目立つとどこへその話が伝わっていくかしれない。


     *


 彼らは突然やってきた。

 防具とさやのぶつかるがちゃがちゃという音。犬の吠える声。それらが館の正面から近づき、やがてノッカーを叩く音と大声で呼ばわる声が聞こえた。

 「開けろ! 開けろ!」

 館の住人、マダム、長女、次女、フェアリー全てが玄関ホールまで出てきた。

 「開けろ! 国王の使いである」

 国王と聞いたとたん、マダムは渋い顔をした。そのまま階段をのぼりながら途中で振り返って言い放った。「あたしゃ出ないよ。お前たちの誰か相手にしな」

 そのまま二階へ消えた。

 「わたしもやだ」長女が言って部屋のすみにあるソファーに座った。

 「……」次女は面白そうに見ながら黙っている。

 仕方なさそうにフェアリーが進み出た。

 ぼくはあわてて奥に隠れた。カーテンの陰からそっとのぞくとホールが見渡せる。

 フェアリーが扉を開けると五名ほどの兵士たちが踏み込んできた。軽い鎧をまとい、屋敷の中をじろじろと見まわす。

 「なんの御用でございましょう」フェアリーは臆さず、まっすぐに兵士の目を見た。

 先頭に立っている兵士が書面を読み上げる。「王のご命令により、人を捜索しておる。最近十八歳くらいの若者を見かけなかったか。目は青、髪は金、肌は白い、中肉中背の男だ」

 「いったいなぜその方を探しているのですか」

 「詳細は明かすわけにはいかん。隠し立てするとためにならんぞ」兵士は高飛車だ。

 「この屋敷には女しかおりません」

 「本当だな。もしそのような者を見かけたら、ただちに王宮近衛兵事務所へ通報するように」兵士は念を押すと振り返って帰ろうとした。

 ワンワン! 突然犬が興奮して吠えた。床を嗅ぎまわっている。一人の兵士が手にした靴を犬にかがせた。

 ぼくの靴だ!

 ぼくの靴の臭いで後を追ってきたのか。いや、この館にいるかどうか確認のためだろう。このままでは見つかってしまう。王宮の兵士に発見されたら万事休す。王宮に連れ帰られ、そのままアキレス殺害の容疑で捕まってしまう。ぼくはカーテンの陰で身を固くした。

 「この奥を調べさせてもらう」

 「お待ちください。館の主人は留守にしております。許可がありません」

 「なに! アナユキシア王家直属の近衛兵の命令が聞けんというのか」

 兵士は尊大な様子でそのままずかずかと中に踏み込んできた。

 犬は興奮して右往左往したが、徐々にぼくの隠れている方へ近づいてきた。犬のたずなを握る兵士がこちらを見たような気がした。

 突然、なにかの壺が転がり、粉が舞った。それと同時に犬はきゃん、と子犬のように鳴くと、飛び退って鼻を押さえた。たずなを持つ兵士が必死で押さえようとするが、犬はぐるぐると歩き回り、たずなをすごい力で引いたのでつられて引きずられた兵士がほかの兵士にぶち当たり、ホール中の注意は走り回る犬とそれを押さえようとする兵士に向けられた。

 たずなに足をひっかけれ転ぶ兵士、たずなが体に巻き付いて縛り上げられた二人の兵士。威厳のないことはなはだしい。

 「くっ。今日は帰るぞ」書面を見せた兵士が手を振り、兵士たち一同は元来た扉から出て行った。

 フェアリーは扉にしっかりと錠をおろすと、ため息をついた。

 「王家め」次女は舌を出す。

 フェアリーは黙って自分が転がしたコショウ壺を拾った。

 「あ、ありがとう」

 「なに」

 「兵士たちを追い払ってくれて」

 「別にあなたのためじゃない。うちはアナユキシア王家が嫌いなだけ」

 「なぜ」

 「お母さまが、昔ひどい目に遭ったのよ」長女が言った。

 「宮廷に仕えたのに、追い出されて」次女が継いだ。


      *


 「まだか! まだ見つからんのか!」大臣の頭は髪が乱れている。「舞踏会はあと二週間に迫っている。今さら王子がいない、ではすまされんぞ」

 「はっ。申し訳ございません」兵士はこうべを垂れてかしこまっている。

 「公に触れを出せば捜索範囲を広げられるかと」

 「それはならん。あくまでも秘密裏に探し出すのだ。こうなれば替え玉でも……」

 大臣はなにか思いついたようだった。突然顔が暗く輝く。

 「そう。そう。あの男がいた。あいつはまだあの商売をやっているかな。生きているのなら、見つかるだろう」

 大臣はここ二週間で初めて笑った。


      *


 館に来て三週間たった。

 ようやくぼくがここにいることは館の住人に認められたようだ。

 マダムもいつ出ていくのか、と言わないし、家事をやってもあまり注意を受けなくなった。まあ及第点ということだろう。

 ぼくは自分の将来が宮殿で続くのか、犯罪者として裁かれるのかあまり考えなくなった。とりあえず人生なるようになるかも。

 もし何も言われないのなら、このままずっとこの館で暮らしてもいいかもしれない。

 ぼくはそんなふうに深く考えずに日々を過ごしていた。


      *


 大臣の部屋にはもう二人の男がいた。一人は医者の着る白衣を着た強盗のような顔の男。もう一人はフードを深くおろして顔を隠している男。

 「ドクター。首尾はどうだ」大臣は待ちきれないというように身を乗り出した。

 「自分で確かめるんだな」白衣の男はふてぶてしく答えた。

 大臣はフードをかぶった男に注目した。フードの男はゆっくりとフードを後ろに落とした。

 しばらく沈黙が場を支配した。大臣がふーと詰めていた息を吐き感嘆する。

 「ペガサス! おぬし、本当にペガサスか」

 ジークフリート王子の顔をした男がにっと笑った。大臣は偽王子のまわりをゆっくりと回りながら検分する。

 「声はごまかしきれんからな。国王に会うときだけは風邪を引いたことにせよ」

 「はい閣下」

 「あとは舞踏会だけだ。首尾よくいけばおぬしはめでたくアンジェリカと結婚できるぞ」

 「閣下のご配慮ありがたき幸せ。このペガサス、生涯忠誠をつくします」

 「そうして生涯秘密を守り続けるのだ」

 よこから白衣の男が割り込んだ。「グッチ。お前のような小悪党が、よもやこんな大悪党になるとは思わなかったぞ」

 「その名で呼ぶな」大臣は苦々しげに答えた。「わしは今ではアナユキシア王国大臣リーガル・チャーチ・ア・ディダスである」

 「まあそういうな。たまにはやってくるから一緒に酒を酌み交わそうぜ」

 「うむ。すべてがうまくいけば、望みのままに褒美をとらす」

 「ちぇっ気取ってやがる」

 白衣の男は不満そうだったが、大臣はそれどころではない様子だった。

 「あとは舞踏会だ」大臣は広間の天井を見上げて笑い出した。


      *


 館に再び訪問者があった。

 前回の兵士の訪問以来、ぼくは常に警戒していたからドアノッカーが鳴り響いたときにびくっと飛び上がった。

 「どちらさまですか」フェアリーが応答する。

 「わしだ」その声にぼくは震え上がった。大臣の声だ。兵士を連れてぼくを捕まえるために乗り込んできたのか。

 ぼくは無駄とは知りながら大急ぎで奥に逃げ込んだ。でもやっぱり気になるのでそっと覗いてみた。

 「大臣である。マダムに面会の約束がある」

 「いいよ。開けな」いつの間にか背後にきていたマダムの指示でフェアリーは扉を開けた。

 意外なことに入ってきた人物は一人だけだった。

 玄関ホールの薄暗がりに目が慣れると大臣は笑みを浮かべた。

 「ようやくここを探り当てたよ。カブート婦人」

 「その名で呼ばれるのは久しぶりですわね」

 「ここを知っていたアキレスが急死してしまってな。かつての宮廷付き魔女がどこにいるのか探し出すのに苦労した」

 「本当にだれにも言っていなかったのに」

 「いや、裏の世界のつながりがあってな。そんなことはどうでもよい。注文の品はできているか」

 「はい」

 「ちょっと」大臣はフェアリーや姉たちに向けて首をしゃくった。「人払いを」

 「これはわたしの娘たちですから大丈夫です」マダムは動じない。

 「では取引といこう」大臣はマントの中から重そうな袋を取り出した。

 マダムはだまって小瓶を差し出した。それを受け取り大臣は重そうな袋をテーブルに置いた。

 小瓶をながめながら大臣は聞いた。「アキレスにきいていたことを確認したいのだが、これの使い方だ」

 「一日一回、スプーン半分の量を食事に混ぜれば体が重くなり、だんだん歩けなくなります。色も味もないので飲んでも気づきません。スプーン一杯の量なら寝たきりになります。そしてスプーン二杯の量で心臓が止まります。医者にはわかりません」

 「素晴らしい」

 そう大臣が言ったときにぼくは気づいた。これは国王に使うための秘密の毒だ!

 「大臣じきじきに来られるとは。ではこの毒の用途も身分の高いお方のためですのね」

 大臣は急にむずかしい顔つきになった。「口を閉じていることだ。さもなくば永遠に閉じることになる」

 「ただ、ひとつ疑問に答えよう」大臣はおもむろに言った。「国王はいまご病気だ。もし仮にわしが大臣の座にあるときに国王が亡くなったら、必ずやカブート家の地位を復興させてやろう」

 「まさか、そのようなことが」

 「いや、国王が亡くなれば、間違いなくわしが摂政となり、国政を取り仕切る。王宮付き魔法使い制度を復活させることも可能だ。そうなった暁には、そなたを元の地位に戻してやろう」

 「本当でございますか」

 「大臣の言葉に二言はない」

 「恐れ入ります」

 「うむ。明日は宮廷舞踏会だ。そちの娘たちもくるのかな」

 「はい」

 「では、そこで会おう」

 「わたしが宮廷へ行くのははばかりませんか」

 「なに。王子の結婚相手候補以外はみな仮面をつけて出席することになっておる。そなたも存分に楽しむがよいぞ」

 「お誘い、恐縮いたします」

 大臣は出ていく間際にソファーにかかっている青いスカーフを見た。一瞬考え込んだ様子だったが、そのまま館を出て行った。


 扉がしまるとそこにいた全員がふう、と安堵のため息を漏らしたが、ぼくはそれどころではなかった。

 マダムは特別な毒を大臣に売った。

 いや、大臣はその毒を父に使おうとしている。いや、すでに今父の体調が悪いのはその毒のせいだった。父が殺される!

 どうしよう。父が殺されたらアナユキシア王国は大臣のものになってしまう。それを止められるのはぼくだけだ。

 だが、ぼくは動けなかった。大臣が秘密のわなを張り巡らしている宮廷にのこのこと顔を出したらどうなるだろう。でもこのままでは父が死んでしまう。

 ぼくは頭を抱えた。


      *


 今夜はぼくの結婚相手を探す宮廷舞踏会だ。ここ一月、館の生活になれるために忙しく、そんなこともすっかり忘れていた。でも昨日の大臣による秘密の訪問で、ぼくはアナユキシア王国と宮廷に気持ちを戻された。本当に、このまま館で暮らせるのならそれはそれでいい、とまで思い始めていたが、ぼくがここで隠れていれば、じきに父が殺され、アナユキシア王国は大臣のものになってしまうことがはっきりした。

 でも舞踏会はぼくがいなければ始まらないはずだ。ぼくなしに大臣はどうするつもりなんだろう。半分仮面舞踏会だから王子の代役に仮面でもかぶせるつもりだろうか。それでも結婚が決まったら仮面をかぶったままでは済まないはずだ。それとも舞踏会の当日に王子が失踪しました、と触れ回るつもりだろうか。どちらの場合でもとりあえずぼくがここに隠れていれば、結婚の話は先には進まないだろう。

 でもあの聡明な大臣がそんな間の抜けたことをするだろうか。なんか不安だ。

 それでもぼくはいつものように決断を迫られるような大事な物事を考えるのを先送りにした。


 夕方になるとカブート婦人と二人の姉は舞踏会へ行く準備を始めた。三人とも念入りに風呂に入り、お化粧をし、今夜のためにとっておきのドレスを着た。

 フェアリーだけがそんな三人をかいがいしく手伝っていたが、自分は普段着のままだった。ぼくは黙っていたが、ときどきちら、とフェアリーを見て、三人が今夜のために特別に呼んだ馬車が着いたときに聞いてみた。

 「きみは……行かないの」

 フェアリーはこともなげに言った。「ええ、わたしは行かない」


 「きみは、この館で召使みたいに使われて、舞踏会にも行けなくて……」

 「それは違う。わたしは本当に行きたくなかった」

 「きらびやかな王宮には行ってみたい気もするけど、みんながぎすぎすして自分こそ王妃、みたいなところへ行くと息がつまりそう」

 「王子様の玉の輿に乗るために女の方から行くって、なんだか違う気がする。お姫様でなくても、女の方が待っていて、助けを求めていて、そこに王子様とか騎士とかが現れるのが正しいんじゃないかしら」

 「そうするとチャンスを逃さないかな」

 「一人の王子にみなが群がって争うってなんか苦手。わたしには無理」

 「そうか」

 ぼくはそうか、とは言ったものの、フェアリーの様子はなんだか残念そうだった。


 三人が馬車で出かけるのを見送り、家事も一段落済むとなにもすることがなくなった。

 フェアリーとぼくは台所でお茶を飲んでいた。今頃は舞踏会が始まっただろう。

 突然フェアリーが言った。

 「ちょうどお母さまたちもいないし、二階に来てみない?」

 「え、寝室に入っていいのか」

 「ばかね、だめよ。普段は使わない大きなバルコニーがあるの。空がよく見えるわ」

 ぼくはフェアリーに誘われるがままに二階へ上がった。廊下の一番奥にバルコニーへ出るガラスの扉があり、そこを開けると二階の面積のかなりを占めるバルコニーがあった。

 「これは……大きいな」

 「羽振りが良かった頃は、ここでお茶会をしたものよ。今では手入れもしていないけど」

 バルコニーはしっくいでおおわれていたが、長年の風雨にさらされ、そこかしこにひびが入っていた。ひびの隙間からつたや雑草がところどころに生えている。そんなことはどうでもよくなるくらい、そこからの景色は素晴らしかった。黒々とした森のカーペットが遠くの山まで続いていた。夜空は晴れ渡り、星の輝きをかすませる満月が登っていた。

 ぼくがバルコニーの手すりにもたれて月をながめていると、フェアリーが隣に並んだ。

 「素敵でしょう」

 「うん」まったくだった。月光に照らされる彼女は。

 しばらく続いた月見の沈黙を破ったのはフェアリーだった。

 「本当は、わたし、舞踏会にちょっぴり行きたい気持ちもあったの」

 「そうか」

 「人混みとかは嫌だけれど、宮廷のシャンデリアに照らされてダンスっていいじゃない?」

 「ぼくも人混みは嫌いだ。でもここは王宮のホールに負けないくらい素敵な場所だよ」

 ぼくは手でバルコニーを示した。白いしっくいは月の光の魔法で傷や汚れが隠され、白亜のホールのように見えた。

 「じゃあ、ちょっとここで踊ってみましょうか」フェアリーがいらずらっぽい顔で言った。ぼくは体がしびれたようになって、突っ立っていた。

 「こっちよ」フェアリーはバルコニーの真ん中へ行ってぼくを手招いた。

 ぼくはふらふらと進み出るとフェアリーが待っている。

 ぼくは宮廷の作法通りに片膝をつき、手を差し出した。

 「マドモアゼル。わたくしと一曲お願いできますか」

 フェアリーは右手を差し出した。

 ぼくはその手を取ると立ち上がり、ゆっくりとワルツのリズムで踊りだした。フェアリーはダンスなんか踊ったことがないのは明らかだったが、ぼくのリードに合わせ、ステップを踏み、体を回した。遠くに虫のなく声以外にはなんの物音も聞こえない夜に、ぼくたちの頭の中でだけ宮廷合奏団の奏でる楽器の音が鳴り響いていた。

 長い長いワルツをぼくたちは踊った。


 マダムたちが帰ってきたのは、もう深夜だった。

 玄関先で馬車の音と馬の息遣いが聞こえ、ぼくとフェアリーがホールに行くとほとんど同時に扉を開け、マダムたちがなだれ込んできた。みな、疲れた様子だ。

 「フェアリー。とりあえずお茶を持っておいで」マダムが叫ぶ。

 フェアリーはポットにお茶を用意し、クッキーの入った壺を玄関ホールに持って行った。

 マダム、長女、次女の三人は玄関ホールわきのソファーに腰を落とすと、お茶をがぶがぶと飲んだ。

 「まったく、とんだ茶番だったよ」マダムが吐き捨てるように言った。長女はぶすっとふくれっ面をしており、次女は疲れた様子だ。

 「どうだったんですか」ぼくは様子が気になってたずねた。「王子はいましたか」

 マダムは変なやつを見る目つきでぼくを見たが説明してくれた。

 「いたよ。そうそう、おまえにちょっと似ていたかな」

 「いやあ、あっちの方がずっとハンサムよ」長女が言う。

 「国中の未婚女性から妃を選ぶって言っていたが、完全な出来試合だったよ。王子は最初から他の女性に目もくれなかった。吸い寄せられるように大臣の娘のところへ行って手を取り、あとは舞踏会の中心はずっとあの二人だった。最初から舞踏会は王子と大臣の娘の婚約をお披露目する会だったんだね。国王はおごそかに二人の結婚式は一週間後に行う、と宣言したよ」

 マダムの憤懣をよそに、ぼくは雷に打たれたように硬直していた。


 王子がいた!


 それでは、この館で雑用をやっているこのぼくは何者だろう。王宮で王子を手配することができたのなら、このぼくという存在はどういう意味を持つのだろうか。

 ぼくは手渡されたコートをしまうのも忘れて立ち尽くしていた。


      *


 大臣は上機嫌だった。ここ数週間でなかったくらいの機嫌だ。舞踏会は大成功で、居合わせた人々がみな、娘のアンジェリカが次期王女となるであろうことを理解した。国王も臨席していたが、替え玉王子に全く気付く様子はなかった。これならこのまま偽物王子が結婚し、即位しても誰も異を唱えないだろう。

 すると、一つだけ懸念点が残る。

 大臣は振り向いて命令した。「プーマをよべ」

 大臣はまじめな顔になった。すべてをぶち壊しにされる前に、懸念は取り除いておくものだ。

 本物の王子は不要になった。


      *


 朝いつも通りに起きたが目覚めは悪かった。昨夜聞いたことでずっと考え込んでいたからだ。大臣はこれからどうするつもりだろう。予定通りなら毒を徐々に増やして国王を病死に見せかけて暗殺する。しかしその前に王子とアンジェリカの結婚がある。あの王子は何者だろう。少なくとも大臣の直系の人間ではないだろう。それなら大臣が王家を乗っ取るつもりなら、王子がアンジェリカと結婚して自分が王家と血縁を結んでからに違いない。ということは王子の結婚式と同時に国王は不要になる。

 父が危ない。

 ぼくはどうするべきか考えた。今最も大事なのは父を救うことだ。宮廷で誰が大臣の手先で、どうやって毒を盛っているのかわからないから、そのまま宮廷に乗り込んでも毒を止めることはできないだろう。それより、解決策もなしにのこのこ宮廷に乗り込めばそのまま大臣の手先に捕まって幽閉されてしまうかもしれない。なんとか父に直接会ってすべてを打ち明け、国王として事件を解決してもらうしかない。でも毒の影響で床にふせっている父には、指揮を執る力はないだろう。それならまず毒の影響をとりさらなければならない。

 大臣が使う毒は館のマダムが調合した秘密の毒だから、マダムならあの毒に対する解毒剤を持っているかもしれない。

 ぼくは立ち上がった。何とかしなくちゃ。


 ぼくは朝のそうじをしながらフェアリーの仕事が一段落つくのを待っていた。昨夜の態度とは打って変わってフェアリーは相変わらず冷たい表情をしている。でも、あれだけ打ち解けたのだから、真剣にお願いすれば聞いてくれるかもしれない。

 「ねえ、フェアリー」

 フェアリーはちょっと止まり、それからぼくを見た。「なに」

 「お願いがあるんだ」

 「わたしはお金を持っていないし、館のことを決めるのは母様だから待遇を良くしてくれとかは無理よ」

 「そうじゃない。マダムが知っている魔法をきみも使えるのかい」

 「どうしてそんなことを知りたいの」

 「どうしても」

 フェアリーはしばらく考え込んだ。あまり気分がよくない、という表情がちらりと顔をよぎったが、話してくれた。

 「お母さまは正統な魔法使いの家系だった。わたしのお父さんはお母さまと結婚した三番目の夫だったけれども魔法使いではなかった。それでもお母さまは最初わたしにも期待して魔法を教え込んだのだけど……」

 「けど?」

 「わたしには才能がなかった。料理から塩を取り去る魔法をかけたら料理が焦げたり、わたしが魔法を使うといつも予期しない結果となるので、危険だからという理由でお母さまはわたしに魔法を教えるのをあきらめた」

 「危険」

 「あのホールの床、一か所すべるところがあるでしょう。あれ、わたしがやったの」

 「ふうん」

 「本当は床を掃除しようとして魔法を使ったら、とんでもない結果になったわけ」

 「なるほど」

 「魔法を制御できないなら、魔法は使ってはいけない。それでわたしはそのまま魔法を習うことをやめた」

 「フェアリー。お願いしたいことというのは、この間大臣に売った毒のことなんだ」

 「ああ、あれね」フェアリーは視線を宙に泳がせた。「悪人が悪用すると分かっていて毒を売るのはどうかと思うけど、国王に王宮付き魔女の地位を追われたお母さまには恨みがあるのかもしれない」

 「あの毒で大事な人が死ぬかもしれない。ぼくはそれを止めたいんだ」

 「なぜ。あなたには関係ないでしょう」

 「訳は言えない。でもお願いだ。マダムに頼んであの毒の解毒剤をもらってくれないか」

 フェアリーはぼくを大きな目でにらんだ。ぼくは黙ったままだった。

 「それはつまり、あなたはアナユキシア王家の関係者ということなのね」

 ぼくは黙っていた。

 「なんてこと」ぼくを見るフェアリーの目にちら、と憎しみの色が宿ったような気がしたが、本当のことはわからない。フェアリーはそのままその場を去った。


      *


 あの日以来、フェアリーはぼくに口をきいてくれなくなった。いや、仕事に関係あることは色々と指示したり、連絡したりはしたが、個人的な話や雑談は一切しなくなった。

 ぼくがアナユキシア王家の関係者とわかったからだ。さすがに王宮の人間も騙されている替え玉王子のことまでは知らないはずだから、ぼくが王子だとは気づいていないだろうが、アナユキシア国王を救おうとしている関係者であることがはっきりしたのでカブート家ではお断り、ということのようだった。

 ただ不思議なのはマダムや姉たちにそのことが伝わっていないらしい、ということだった。あれほどアナユキシア王家に憎しみを現していた彼女たちがぼくの素性を知ったら館から追い出されてもおかしくないが、そんな気配は全くなく、ぼくはただ毎日の雑用をこなし続けていた。フェアリーはぼくの素性を話していないようだ。

 そうしているうちに一週間はまたたく間に過ぎ、王子の結婚式まであと一日という時分になった。

 ぼくはとうとう居ても立っても居られなくなり、玄関ホールで家具を磨いているフェアリーの後ろ姿に話しかけた。

 「ねえ、フェアリー」フェアリーは固まった。ぼくは話をつづけた。

 「きみたちにとってアナユキシア王は憎むべき相手かもしれない。でもその王を愛する人もいるんだ。そして陰謀や暗殺は、それが誰に対してであっても許してはいけない」

 こちらを向いたフェアリーに対してぼくは言った。

 「フェアリー。お願いだ」

 フェアリーはこちらをちらと見て言った。「こっちへ」そのまま奥へ歩いてゆく。

 ぼくは彼女について行った。フェアリーは台所の洗剤を入れてある棚の中から小さなびんを取り出した。それをぼくに渡す。

 「これを持ってあなたの大切な人を救いなさい。ただし、一度この館から出たらここへは二度と戻れない」

 気のせいか、フェアリーの顔は苦痛にゆがんでいるようだった。

 ぼくはそれでも感謝してそのびんをおし頂いた。フェアリーは突き放すようにしてびんをぼくに手渡した。しばらく沈黙が続いた。


 タンタン

 沈黙を破るノッカーの音が玄関扉から聞こえた。誰だろう。もし村人で馬かなにかで来ていれば借りることができるかもしれない。

 ぼくはフェアリーが扉を開けると顔を出した。外には王都郵便局員の制服を着た男が一人立っていた。

 「すみません。カブート婦人あてで書留です」

 「はい。わたしが受け取ります」フェアリーは胸に刺したペンを抜き、サインしようとした。

 「申し訳ないが、これは本人限定郵便でして、本人に直接渡すことになっています」郵便局員は本当に申し訳なさそうな顔をした。

 フェアリーは二階へ上がって行った。

 「じゃあ本人が来られるまでちょっと上がらせてもらいますよ。いやどっこらしょ。今日は暑いですねえ」男はそのままソファーに腰かけた。さらにホール中を大きな目でぎょろぎょろと見まわした。失礼だな。田舎の郵便局員だからか。田舎の郵便局員。

 郵便局員の男はしばらく辺りを見回すとやおらソファーの下に手を入れて青いスカーフを引っ張り出した。

 「おや、こんなものが、これはおたくのかね?」

 そう言って、青いスカーフをぼくに手渡そうとした。ぼくがスカーフに手を伸ばすと同時に郵便局員の男はかばんから抜き出したピストルのようなものをぼくの顔に向けた。

 ぴゅっ

 ピストルの先から水が飛んだ。ぼくはとっさに横向きに転がってそれをかわした。飛んだ水は床に落ちた。別に床が焦げたりはしなかったが、直感でなにか危険なものだと分かった。

 男は二弾三弾と水鉄砲を放ったが、ぼくはそれを左右へのステップでかわした。

 「不意打ちで決めると思ったのにな。どうして気づいた?」男が言う。

 「その制服は王都の郵便局員のものだ。この辺りの地方局員はもっと地味な制服だよ」ぼくは答えた。

 「そういうお前も王宮近衛兵のスカーフを出しっぱなしにしておくとは用心が足りなかったな」

 そうか。あのときの青いスカーフ。大臣はあれでぼくがこの館にいることに気づいたんだ。

 「なにしてるんだい!」階段の途中まで下りてきたマダムが叫んだ。

 「来るな!」ぼくも叫んだ。「毒だ」

 はたから見れば水鉄砲で遊んでいるように見えただろう。次の一弾はぼくの背後にあった観葉植物にかかり、ただちに観葉植物は力を失って垂れ下がった。

 それを見たマダムとフェアリーが息をのむのが聞こえた。

 ぼくは椅子をとりあげて盾にした。ぼくと暗殺者はホール内をじりじりと互いに回るように動き距離をとったが、ぼくは徐々に階段脇に追い詰められた。

 暗殺者が狙いをはずさないように距離を詰めたとき、狙いすましてぼくは椅子を振り上げた。暗殺者はそれを予想していたようにフェイントをかけて後ろに下がった。ぼくの振り回した椅子は空を切った。暗殺者はそれを待っていたかのように水鉄砲のねらいをつけた。万事休す。

 ぴゅっつ。ドン!

 なにが起きたかすぐにはわからなかった。

 暗殺者の毒水を体を張って受け止めたのはフェアリーだった。フェアリーは「あっ」と叫ぶとそのまま倒れた。

 「フェアリー!」ぼくは彼女の体を抱き留めてゆさぶったがもはやフェアリーは意識を失っていた。「フェアリー! フェアリー!」しかしフェアリーは動かなかった。

 ぼくは目の前が真っ赤になった。距離をとっている男にたいして椅子を振り上げ、投げつけた。投げるとは予想していなかったのか、椅子はかなりのスピードで飛んでいき、暗殺者の顔に当たった。水鉄砲は弾き飛ばされ、男は倒れた。

 男には目もくれず、ぼくはフェアリーの体を抱きしめ揺さぶった。「フェアリー! 頼むから目を開けてくれ」フェアリーは応えなかった。ぼくの膝の上で力なく横たわっていた。ぼくは毒を洗い流すつもりで花瓶の水をフェアリーの頭からあびせた。そうして何度もゆさぶったがフェアリーはぴくりとも動かなかった。

 ぼくの両目から涙がぽろぽろと流れ落ちた。胸の奥からとめどなく嗚咽がもれる。

 「フェアリー。言えなかった。でも本当は、愛していた。頼む。ぼくを一人にしないでくれ」

 「それ、本当」

 電気に打たれたようにぼくが見ると、フェアリーがうっすらと目を開けている。

 「どうして」

 フェアリーは微笑んだ。「毎日蜘蛛に噛まれていると、毒が効かなくなるのね」

 「よかった」ぼくはフェアリーを抱きしめようとしたが、フェアリーはなにかに気づいたように目を大きく見開いた。ぼくの背後を見ている。

 ぼくは振り返った。先ほど倒した男が短剣を抜いて立ち上がった。そのままばね仕掛けのように走り出し迫ってくる。

 「危ない!」フェアリーは叫んでぼくを突飛ばそうとした。ぼくはそんなフェアリーを強く抱きしめてかばった。

 ドン!

 暗殺者は例の「必ずすべる場所」で滑って転んだ。そのときに手にしていた短剣が自分の胸に刺さった。苦痛のために暗殺者はもがいた。

 「くっくおう!」

 暗殺者は二転三転と転がったが苦痛は増すばかりの様子だった。血が吹き出てきて床を汚した。

 カブート婦人や姉たちが階下に降りてきてこわごわと取り巻いている。

 暗殺者は苦悶の表情で言った。「王子と女四人だけと聞いていたから簡単だと思ったのに」

 マダムは蒼白になった。

 暗殺者はしばらくもがいていたが、突然生命の糸が切れたように動かなくなった。

 「なるほど。大臣の約束とはこういうことだったんだね」

 ぼくは立ち上がった。目の端でフェアリーの様子をうかがい、とりあえず無事なのを確認すると、マダムに一礼した。

 「マダム。今まで隠していて申し訳ありませんでしたが、ぼくはアナユキシア家の王子ジークフリートです。あなたはアナユキシア家を好かれていないとのことなので、ここで失礼いたします。ぼくは大臣の陰謀から国王の命とこの国を守らなければなりませんから」

 「いや、それは」

 「今までお世話になりました」

 「ちょっと」

 マダムはなにか言いたそうだったが、ぼくはそれを振り切って扉から出た。目の端にフェアリーの映像が残ったが、そのまま外に出た。

 中庭には予想通り暗殺者の乗ってきた馬がつないであった。

 ぼくはそれにまたがると、駆けだした。途中で村の医者に寄り、館への往診を手配するとそのままただちに王都へ向けて出発した。


 逃げて来たときには混乱していたのでジグザグの道のりだったのだろうが、王都に戻るためにぼくは街道を飛ばした。

 間違いでなければ今日、偽王子とアンジェリカとの結婚式が行われる。そうしたら、国王は毒の量を増やされるに違いない。

 なんとしてでもこの結婚を止めなければ。

 ぼくは馬を飛ばした。馬術は修めていたが、これほど長時間乗り続けたのは初めてだった。ぼくは馬が疲れにくいように鞍をひざではさんで馬の前後の揺れに合わせて乗り続けた。ひざが痛くなってきたが、今のぼくには大した問題ではなかった。


 王宮に着くと門は大きく開かれ、祝旗が掲げられ、衛兵もお祭り気分だった。

 ぼくは馬に乗ったまま衛兵に向かって怒鳴った「ジークフリート王子である! 通せ!」

 衛兵は敬礼してからぼくを不思議そうな顔をで見た。「王子様でありますか」

 「この顔を見ればわかるだろう。通るぞ!」ぼくはそのまま門を通り過ぎた。背後で衛兵が話すのが聞こえた。「平民の服を着ているぞ」

 ぼくは馬に乗ったまま王宮の正面玄関に乗り付け、階段を駆け上った。途中何度か止められたが、ぼくの服を見てみな不審そうな顔をしたものの、ぼくの顔を見て通してくれた。

 ぼくはそのまま王宮の正面玄関に入った。


 ぼくが王宮のホールに入ったとき、まさに婚姻の儀式はたけなわだった。正面に司祭が立ち、ぼくの顔をした偽王子とアンジェリカが両側に立っている。わきの貴賓席には国王や大臣たちが座っていた。ホール中には椅子が並び、来賓客がぎっしりと詰まっている。


 「待てえ!」ぼくは大声で叫んだ。みながこちらを見て、驚きと混乱した表情をした。

 「その結婚に異議あり!」ぼくを取り押さえようと衛兵が迫ってきたが、ぼくの顔を見てみな躊躇した。そのすきにぼくは走ってゆき、司祭のところまでたどり着いた。

 「みんな! この結婚は無効だ。なせなら、このぼくこそが本物のジークフリート王子だからだ。こいつは偽物だ!」ぼくは偽王子の胸を指さして叫んだ。

 偽王子はただちに応酬した。「なにを言っている。お前こそ偽物だろう。どこの平民が紛れ込んできた」アンジェリカもすぐさま偽王子に寄り添う。

 これは、どうもぼくの方が不利だ。ぼくは国王に向かって叫んだ。「お父さん。ぼくですジークフリートです。これはすべて大臣の陰謀です。このままではあなたは殺されてしまう。ぼくが本物の王子だと認めてください」

 国王はなにか話したが、聞こえないくらいの小さな声だった。もはや毒が体に回り、あまり声が出せないのだ。どうしよう。

 「そういえば、あの声はジークフリート様」宮廷の召使がぼくを指さして言う。

 居並ぶ人々はぼくを見た。

 「この偽物め。王子を名乗るとは不届きな。わたしが自ら成敗してやる」焦った顔の偽王子が剣を抜き放った。

 事態を見て取った大臣がにやりと笑った。「ここは騎士らしく剣による決着と行きましょう。誉れ高きアナユキシア家の王子が偽物に武術で後れを取るはずがない」

 その場の雰囲気が剣による決闘を支持するように変わった。大臣の指示で衛兵の一人がぼくに剣を放ってよこした。これはどうしても剣で決着をつけなければならないようだ。ぼくも落ちた剣を拾って構えた。人々はぼくたち二人を遠巻きにして離れた。

 ぼくと偽王子は剣を斜に構え、互いに距離をとった。

 立ち聞きしたうわさ話によれば、相手は昨年の御前剣術大会の優勝者だ。そしてぼくは子供の時から剣術の指南を受けていたとはいえ、実戦経験はほとんどない。アキレスのときも、暗殺者の時も、ぼくは剣ではなく物を投げつけて勝利した。しかし今度こそ、剣で戦うしかない。

 相手は余裕の表情で大上段から打ち込んできた。ぼくはそれを受けた。意外に力がない。なぜだろう。

 ぼくを少し余裕が出てきたので一歩前に踏み出した。相手は突くと見せかけて横に払ってきた。ぼくがそれを受けると、そのまま剣をからませて回すようにしぼくの剣を跳ね飛ばそうとした。アキレスもやった技だったが、ぼくの手はしっかりと剣の柄を握り、放さなかった。

 相手は今度は突進してきてぼくを押すとそのまま足払いをかけた。ぼくはかろうじて転ぶのは踏みとどまったが、片膝をついた。首をねらって横殴りの剣が来た。ぼくはそれを剣で受けたが、剣はすべってぼくの胸に当たった。

 ぼくは立ち上がった。相手はぼくが体勢を立て直すのを許さず、連続攻撃してきた。

 一撃、二撃、受けながらぼくは後ろに下がった。衛兵たちの作った壁を背にした。相手はぼくを追い詰めたので一度止まった。

 ぼくは剣の柄を握りしめた。ぼくは負けるわけにはいかない。ぼくは王子として、次期国王として、とても重いものを背負わなければならないのだ。ぼくはそれが面倒くさくて、嫌で、先送りにし続けたため、今日のようなのっぴきならない事態にまでなってしまった。ぼくが今までもっと勇気を出してやるべきことを行っていれば、大臣も陰謀なんて考えなかったかもしれないのだ。もしぼくがここで殺されたら、ぼくの父である国王も殺されるだろうし、館への暗殺者が再びはなたれてフェアリーもその家族たちもみな口封じのために殺されるだろう。決してそんなことはさせない。

 決意が腹の下にめらめらと沸き起こった。噴火する火山のようにマグマがのどもとへ上がってくる。

 ぼくは大きな声で叫んだ。相手が一瞬固まるほどだった。

 ぼくは大きく振りかぶって、上段から一撃を打ち込んだ。相手はそれを剣で受け止めたが、ぼくの剣は相手の剣をへし折り、そのまま相手の肩に深く切り込んだ。

 血しぶきが上がり、偽王子はゆっくりと信じられない、という表情をして崩れ折れた。

 ぼくは剣を床に突き、自分の手のひらを見た。毎日の薪割りでまめがつぶれたうえにさらにまめができてつぶれ、固まり、牛の革のように固くなった手のひらを。

 「そ、そんな。こやつは暗殺者に違いない。本物の王子が負けるはずが……」大臣が焦って言う。「者ども、こやつをひっとらえい!」

 ぼくはそのまま父に駆け寄ろうとしたが、さすがに衛兵たちがそれを阻んだ。ぼくは大声で言った。「待ってくれ。ここに解毒剤を持ってきたんだ。これがあれば国王の病気は治る。ほら、ここに」

 ぼくが懐に手を入れると砕けたガラスと湿った布の感触がした。

 「そんな!」

 先ほどの戦いで相手の剣が当たり、解毒剤の入ったびんは粉々に砕けてしまったのだ。

 「解毒剤が!」ぼくは両腕を衛兵に捕まれているのにも構わず、父に向かって叫んだ。「お父さん!」

 「解毒剤などと言って国王に近づき、暗殺するつもりか。曲者め。こやつを牢へ連れて行け」大臣が叫ぶ。

 衛兵たちが動こうとしたとき、甲高い声がそれを制した。

 「ペガサス、ねえペガサスぅ。起きてよ、ねえ起きて。いやよ死んじゃったらいや」

 アンジェリカが偽王子の恋人にすがってその体をゆすり、泣きじゃくっている。静まり返ったホールに彼女の声が響いた。衛兵たちは顔を見合わせた。

 「ペガサス?」「だれ?」会衆のつぶやきが聞こえる

 「なにをしておる! 早くこやつを……」焦った大臣が叫ぶほど、まわりは静まり返った。


 「そこまで、お待ちなさい」

 凛とした声が響き、人々が思わず振り返った。誰かが正面玄関からやってくる。それに伴い決闘を見物しようと遠巻きにした人々が徐々に道を開けるのが伝わってくる。誰だろう。

 そうして会衆を割って現れたのは、なんとカブート婦人とそれに続くフェアリーだった。


 カブート婦人は館にいるときとは異なった雰囲気だった。王宮になじむというか、元王宮付き魔女の威厳を備えていた。

 「どうやってここに」ぼくは驚いてたずねた。

 「魔法を使えば馬よりも早く移動することもできるのです。ただ、マナを使いつくしてしまいましたけど。しばらく魔法を使うのは無理ですわね」

 カブート婦人はそう言うと進み出た。衛兵の群れが割れ、自然に道ができた。そのままカブート婦人はまっすぐ国王のところへ進んだ。

 国王は、父は安楽椅子にゆったりと横たわり、力のない様子だったが、カブート婦人が近づくとはっきりと顔を上げ言った。

 「ムーンスター」甘い声だ。

 「ナイク」カブート婦人もめったに聞かない父のファーストネームを呼んだ。

 二人は互いを感慨深げな様子でしばし見つめあった。

 父は言った。「わしを許してくれるか。ムーンスター」

 カブート婦人は黙っていた。

 父はつづけた。「そなたが王宮付き魔女だったとき、そなたをねたむ貴族たちの陰謀があった。たくさんの問題があり、人が死んだ。そなたを暗殺の危険から守るためにわしは王宮付き魔女の制度そのものを廃止した。そなたは王都を去った。おそらく、その後の人生は大変だっただろうな」

 「もうすんだことですわ」

 「わしをうらんでいるだろう」

 「そんなわけがありません。あなたのためなら」

 ぼくは言った。「え? じゃあマダムにとって父は大切な人だったんですか。じゃあなぜ毒を……」

 カブート婦人はぼくに向かって微笑んで言った。「あの毒は蜘蛛の毒です。蜘蛛は獲物を生かしたまま食べるために毒でしびれさせます。だから蜘蛛の毒をいくら飲んでも、痺れるだけで死ぬことはない。解毒剤は必要ないのです。毒を摂るのをやめればじきに回復します」

 「なんと」思わず大臣がつぶやく。

 「元王宮付き魔女のわたしが、落ちぶれても魔法を悪の用途に使ったりはしません。ましてやそれがかつて愛した国王に対して使われると分かっていたのなら」

 そうだったのか。それじゃ解毒剤というのも偽だったんだ。

 ぼくの考えを呼んだようにカブート婦人ははぼくを向いて言った。

 「あなたが王子だと知るまで、どんな立場の人間かわからなかった。だから用心して解毒剤と言ってなにもない水の入った小瓶を渡したのです。フェアリーもそのことは知りませんでした。あなたがフェアリーを抱きしめて涙を流すのを見たとき、あなたの真実の気持ちがわかりました。だからわたくしもここに来たのですよ」

 一同はしばらく沈黙した。静寂を破ったのは駆け足の音だった。大臣がいつの間にか階段を上り、廊下を走って逃げていく。

 「やつを捕まえろ」国王が命じた。衛兵があわてて走り出したとき。

 「バ・ナーナ!」フェアリーが駆ける大臣の前を指さして叫んだ。光が飛んだりはしなかったが、なにかが起き、それで駆ける大臣はすべって転んだ。大臣は何度か立ち上がろうとしたが、そのたびに床に油でも流してあるかのようにすべり、進むことができなくなった。遅れて追いついてきた衛兵たちもすべって転び、二階は混乱したが、やがて大臣は捕まり、連行された。


 「やれやれ、ではわしもしばらく生きながらえるのかのう。だが、お前の妃選びはやり直しとなるか」国王が父親の顔でぼくに言った。

 「心配ありません。お父さん」ぼくは笑顔で言った。「国王の舞踏会の勅令はどうでしたか」

 「あの舞踏会の晩に王子とダンスを踊ったものを妃候補とする」

 「ですね」ぼくはくすくすと笑った。「あの晩に王子と、つまりぼくとダンスを踊った女性がいます」

 ぼくは進み出るとフェアリーの手を取った。フェアリーは大きく目を見開いた。

 「フェアリー。アナユキシア家の王子として、ぼくはあなたに結婚を申し込みます。受けてくださいますね」

 フェアリーはちょっと固まって、それからはっきりと言った。「はい」

 会衆が一斉に歓声を上げた。ぼくはそれに負けないような大声を上げた。

 「ぼくが国王になったあかつきには、カブート家を再び王宮付き魔法使いの地位に戻す!」

 再び大きな歓声が上がり、ぼくとフェアリーを包んだ。ちら、と見ると父もカブート夫人も微笑んでいた。

 アナユキシア家の栄光はしばらく続きそうだ。


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