94話
直樹は小さく息を吐くと
「……俺が渡してくるよ」
と、里美の手から封筒を抜き取って、VIPルームへと向かった。
「春」
「あ、はい」
カーテンを開けながら声をかけると、春香は読んでいた本から顔を上げて返事をした。
若い女の子らしくファッション誌でも読めば良いのに、春香が読んでいるのはマッサージや整体やツボの本ばかり。
またその手の本かと思いながら春香の手元に視線を移すと、高蛋白低カロリーの料理のレシピ本だった。
「春に手紙だ」
直樹はそう言って、デスクに封筒を置いた。
「手紙? 私に?」
直樹の置いた封筒に目をやると、春香の胸がドクンと音を立てた。
(この字は……鷹羽さんの……)
春香は、震える指で封筒を手に取る。
(春の動揺の仕方は……。やっぱり鷹羽くんからの手紙か……)
何の手紙かは分からないが、直樹は春香が決める事だと思い、静観しようと決めてVIPルームを出た。
春香は数分の間、封筒を手にしたまま、じっと表書きの『市村春香様』と書かれた文字を見詰めていた。
(鷹羽さんからの手紙……)
交際を断った相手からの手紙に、何が書かれているのかなど想像も出来ない春香は、読むべきか迷っていた。
直樹が、勤務時間内に私信を手渡したと言う事は読んでも良いと言う事だとは思っていても、封筒を開ける勇気が出ずにいた。
(何が書いてあるの……? 分からない……。読むのが……怖い……。でも……読まなきゃ……。最初で……最後の手紙なんだろうから……)
春香は何度も深呼吸をして、震える指で封筒を開け、便箋を取り出した。
(大丈夫……。午後の予約は入ってない……。だから多少なら泣いても誰にも分からないはず……)
春香は、一度ギュッと目を閉じてから便箋を開いた。
『市村さんへ
この前は驚かせてしまってすみませんでした。
俺は市村さんより年下だし、まだ社会人になったばかりで頼りないと思われるかも知れませんが、俺は本気で市村さんが好きです。
あれからまだ一勝も出来てないし、何より市村さんの気持ちが落ち着くまで電話はしないと決めたので 電話はしませんでしたが、俺の気持ちは変わっていません。』
(鷹羽さん……)
雄太の想いが、春香の涙腺を緩ませる。
自分は年下だと言いながらも気を使ってくれている優しさに、申し訳なさと切なさが込み上げてくる。
『市村さんが今どんな思いでいるか分からないですけど、どうしても伝えたい事があって手紙を書きました。
他にも騎乗はありますが、22日の日曜日、名古屋の中京競馬場で初めて重賞G3に出ます。
本当は見に来て欲しいですが、今は無理は言いません。
ただ応援していてください。
今の俺はそれだけで十分です。
いつかまた、市村さんの笑顔が見られるように精一杯頑張ります。
3月20日
鷹羽雄太 』
こらえていた涙が溢れた。
中京競馬場なら行けない事はない。
初めての重賞に出る雄太を直接見る事が出来たら……。
そう思うだけで、涙をとめる事はできなかった。
(鷹羽さん……。何でこんなに優しいんですか……。何で私になんかに優しくしてくれるんですか……。私、鷹羽さんを傷付けたんですよ……? それなのに……どうして……)
雄太の優しさが心にしみてくる。
優しい笑顔が、優しい声が思い出されてくる。
(鷹羽さん……)
春香は、声を押し殺して泣き続けた。




