92話
(この先、苦労する事もあるんだろうな……。悩んで挫折して泣きたくなるぐらいの事もあるだろう……。けどな、雄太。人生も、騎手も一緒だ。良い事ばかりじゃない。けど、悪い事ばかりでもない。お前が、春香ちゃんを引っ張っていってやれ。お前なら大丈夫だ)
騎手としてだけでなく、人生の先輩として、鈴掛は雄太にエールを送る。
純也が運ばれて来たステーキを切って、雄太にも分けてやっている。
「美味いな、雄太ぁ〜 。さすが、近江牛だな」
「うん。美味いな 、ソル」
親友の惚れた女の過去の話を聞いて、涙を流せる純也の優しさも知った。
(純也も雄太と同じでレースでは負けん気発揮するのに、心根の優しい奴だよな。普段チャラいのに)
所属している厩舎は違うのに、いつの間にか懐いた二人の後輩。
騎手としても人間としての成長をも見て行けるのだと思うと、その日の酒は格別だった。
その日の夜、店を閉めてから、直樹と里美は自宅の隣の春香の自宅を訪れた。
そして、今朝のニュースの話をした。
「……逮捕……されたんですか……」
春香は抑揚のない声で呟いた。
今まで、何度も何度も『専属契約を結んだだろう』と、問い合わせがあった。
店に訪ねて来る同業者やスポーツ業界の人も居た。
その人数が増えていくにつれ『いずれ逮捕されるだろう』と、法律に詳しくない春香にも想像が出来ていた。
(これで……私は犯罪者の娘……。縁を切ったと言っても、実の親には変わりがない……。私が、あの人達の血を分けた子供である事に変わりはない……。こんな私が……犯罪者の娘が、鷹羽さんとお付き合いなんて出来る訳がない……。きっと鷹羽さんが知ったら……軽蔑される……。だから、お断りして良かったのよ……)
親とも思いたくもない人間の逮捕より、二十歳にして ようやく訪れた初恋を諦めなければならない方が辛かった。
昼間、散々泣いて涙は枯れ果てたと思っていたのに、また大粒の涙が溢れ出し頬を伝った。
「春香……」
里美は、優しく春香の肩を抱いた。
(私を引き取った所為で、直樹先生にも里美先生にも迷惑をかけてしまったのが辛い……。いつか、必ず恩返しします……。ごめんなさい……。お父さん、お母さん……)
姓を変えてから、人前でなくても『お父さん』『お母さん』と呼べなくなった事も辛かった。
「大……丈夫です……。私は大丈夫……です」
涙を流しながら言っても説得力はないとは思うが、そう言わずにはいられなかった。
「春、無理をするな」
「いえ……。本当に……大丈夫……です」
声を詰まらせながら言う春香に、直樹は優しく言った。
春香はゆっくりと首を横に振った。
「私、ホッとしてるんです……。これで、しばらくあの人達からお金を要求される事も、専属契約をしただろうと怒鳴り込まれる事もないでしょう……?」
春香はポロポロと溢れる涙をグイッと拭って、ジッと直樹を見た。
「直樹先生にも里美先生にも嫌な思いをさせなくて済むなら、あの人達が逮捕されて良かったんです……」
(春……。お前が泣いてるのは、それだけじゃないだろう……?)
今朝の事を思い出し、直樹の胸はキリキリと痛んだ。
「とりあえず顔を冷やして早く寝なさい。明日は、午前から予約が入ってるんだから。良いわね? もし一人で居るのが辛いって思ったら、うちに来て寝ても良いのよ?」
里美に言われて、春香はまた首を横に振った。
「大丈夫です、里美先生。私は大人ですから。明日からも、ちゃんと仕事します」
そう言った目に、もう涙はなかった。




