88話
「……直樹先生や里美先生以外の人に対して『世の中の全ての人は敵』みたいに思えてしまってたんだろうね……。大人になれば、それがいかに視野が狭い考えかは分かるんだろうけど、中学生の女の子には無理だっただろうね……。そんな酷い暮らしをしてた上、イジメまで受けてたら……」
そう言って、梅野は空になったグラスを見詰めている。
「そうだな……。東雲夫妻は、春香ちゃんを追い詰めないように、ゆっくり時間をかけて説得を続けていたんだが、気付けば中学を卒業するって時期になっていたそうだ。学校側は出席日数が足りないから、もう一年通うようにと言ったそうなんだが、 春香ちゃんは『絶対に学校には行かない』って言ったそうだ。その後、高校くらいはと言う話になったそうなんだが、『学校には行かない。マッサージ店を手伝いたい』と言ったんだと。『マッサージ店は接客業だから無理だ』と言ったら『掃除でも何でもする。外に行くのは、絶対に嫌だ』って言ったそうだ……」
鈴掛は話を聞いた当時を思い出し、切ない表情をしながら話す。
「夫妻は仕方なく、掃除とか人と接する事が殆どない仕事をさせていたんだと。人と接する事が出来るようになったら、定時制の高校にでも行かせるかって話してた頃、テレビのロケで来ていたタレントが腰を痛めて東雲を訪れたんだそうだ」
鈴掛は一息ついて雄太の方を見た。
鈴掛の話を一言も聞き逃さないといった真剣な表情を見て、鈴掛は雄太の強い意思を感じた。
「そのタレントが辛そうな顔で待ち合いで座ってるのを見た春香ちゃんが、どう言う訳だか自ら近付いて行って『大丈夫ですか?』と声をかけて腰を擦ったんだと。そうしたら、どう言う訳だか痛みが引いたんだってさ」
「じゃあ、それが『神の手』と呼ばれる最初の……」
雄太の問いに、鈴掛は深く頷いた。
(『神の手』って、市村さんの優しさから発現した……のか……?)
雄太は、自分の足を治す為に誰にも言わず、無料で神の手を使ってくれた春香の優しさを思い出すと胸が熱くなった。
「夫妻は、なぜ春香ちゃんがそのタレントに近付いたのかも、なぜ痛みが引いたのかも分からずにいたんだよ。そうこうしてる内に、そのタレントから話を聞いた野球選手が東雲を訪れて、春香ちゃんの手に痛みを取る効果があるなら試して欲しいと夫妻に頼み込んだそうだ 。そしたら、やはり痛みが取れたそうでな。で、その選手から話を聞いた同じチームの選手が東雲を訪れて、その効果を実感して『東雲には癒やしの手を持つ女の子が居る』『まるで神のようだった』って噂が広まったんだってよ 」
「……俺が、もしその野球選手と同じ立場で 、ソルが怪我をしたら『東雲に行けば治してもらえるぞ』って言ったでしょうね……。市村さんの『神の手』の噂が広まったのって、誰かが悪かった訳じゃない…。その事で、親から金をせびられる事になったのは、確かに可哀想ではあるけど……」
雄太はそう言った後、視線を落とした。
もし、そのタレントが東雲に行かなかったら……。
もし、春香が誰であれ拒んでいたなら……。
親からの金の無心はなかっただろう。
だが、そうだったら雄太は、春香と出会えなかった。
競馬に『たらればはない』と言われる。それを知っている雄太でも考えてしまう。
『もし』『たら』『なら』
( 駄目だ……。『たられば』を考えても、どうしようもない……。俺が考えるべきは、現在と未来じゃないと意味がないんだ……)




