85話
神社を後にした春香は通用口から入り自宅に戻った。
階段を一気に駈け上がり、自宅のドアを開けそのまま座り込み、手の甲でグイッと涙を拭った。
(何で私は……泣いてるの……? 『ごめんなさい』って……お付き合いを断ったのは 私なのに……。断った私がなぜ泣いてるの……? どうして……?)
次から次と涙が溢れて止まらない。
(何で……何でこんなに涙が出るの……? 何でこんなに胸が苦しいの……?)
手にしていた色紙に目をやる。
涙で視界が歪む。
(鷹羽さん……)
ビニール袋にポタポタと涙が落ちた。
(初勝利のお祝いの言葉を、もっともっと言いたかったのに……。鷹羽さんの初勝利をあんなに心待ちにしてたのに……。私は……私は……)
『俺、市村さんが好きです』
何度も何度も繰り返し思い出す雄太の言葉。自分を見詰めていた真剣な瞳。
『 好き』
花が好き。
甘い桃が好き。
料理が好き。
そんな『好き』とは違う『好き』。
今まで自分が知らずにいた『好き』。
頭の中をグルグルと回る好きの言葉。
(私は……? 私は、鷹羽さんが好き……?)
ギュッと目を閉じて思い返す。
自分を呼ぶ優しい声。
優しい笑顔。
二人っきりになった時の恥ずかしそうな顔。
競馬の話をしている時のキラキラした瞳。
馬に跨っている時のキリッとした姿。
『勝ちました』と言った嬉しそうな声。
自分を見詰めて『好きです』と言った真剣な顔と声。
そして、何より『会いたい』と思ってしまった……口にしてしまった自分……。
(私……私は……鷹羽さんが……好きだったんだ……。私は鷹羽さんが……鷹羽さんの事が好き……。いつから……? 分からない……。でも、私は鷹羽さんが……好き……)
だから涙が出たのだと気付いた。
金の亡者の娘だと知られたくないから……。
ロクでもない親が居ると知られたくないから……。
知られたら嫌われると分かっているから……。
(だから……私は鷹羽さんとお付き合いなんて……出来ない……)
雄太の告白に自分も好きと答えていたら、どんな風に言ってくれただろうと思う。きっと喜んでくれただろう。
そう思うだけで胸が締めつけられる。また、涙が溢れる。
(鷹羽さん……。私が……私が好きになった鷹羽さんは明るい陽の光の中で生きて行く人……。だから、断って良かったのよ……)
いずれ雄太に相応しい女性と巡り会い恋をして、結婚をして幸せに暮らして行くだろう。
そして子供を授かり、幸せな家庭を築いて行くだろう。
そんな想像をするだけで、涙はとめどなく溢れる。
(それで良い……。鷹羽さんには幸せになって欲しい……。大丈夫。私は……私は今日までの鷹羽さんとの思い出だけで生きて行けるから……。鷹羽さんの笑顔や優しい声を思い出すだけで 生きて行ける……。初めて私を好きだと言ってくれた鷹羽さんの声を一生忘れない……)
春香はそっと色紙を抱き締めた。
(大丈夫……。この思い出だけで生きて行ける……。大丈夫……)
春香は初めて恋を自覚し、その初恋を心の奥底にしまい込もうと思った。
(ありがとう、鷹羽さん……。私が初めて好きになった優しい人……。ずっと… ずっと忘れません……。私に恋を教えてくれて、ありがとう……)
そっと、色紙の雄太の名前を指でなぞる。
(ありがとう、鷹羽さん……。ありがとう 、雄太くん……)




