863話
5月26日(日曜日)
東京競馬場 10R 第57回優駿牝馬 G1 15:35発走 芝2400m
四歳牝馬の樫の女王を決めるオークスに雄太は出場する。
(2.5倍……か。もう少し……いや。あんまり考えないでおこう。一番人気なんだし……。それなりにマークされるから……)
あれこれ考えながらパドックをジッと見詰める。そして、その隣で純也も口真一文字に結んで真剣な顔をしていた。
幼馴染の親友じゃない同期の騎手の顔だ。普段見せない騎手塩崎純也の顔をしている。
(簡単に負ける訳にはいかないからな)
号令がかかり雄太と純也は立ち上がり騎手控室を出た。
本馬場入場を終え、輪乗りをしてから順番にゲートに入っていく。
若い馬ばかりだから、多少うるさくしてしまったり、ゲートインを嫌がる馬がいるのは当たり前だ。
ゲートが開き、雄太は中団に位置取り、純也はタイミングが合わずに出遅れた形になった。
(雄太くん……。塩崎さん……)
スタートが上手いと言われている雄太が出遅れる時もある。純也もスタートは下手ではないが、はっきりと分かる出遅れだったから、春香は心配してしまった。
出遅れた上に、スピードが乗れていない気がしたからだ。
「パパ。がんばれ、がんばれ〜」
「パーパ。ガンバレェ〜」
「パッパ、パッパ」
ソファーに座る春香は、テレビの前で並ぶ小さな背中達を笑顔で見詰める。
向こう正面を過ぎても、雄太は焦る事なく順位を保っていた。
(もう直ぐ……)
3コーナーを過ぎると雄太は馬群の真ん中に位置取ったまま、少しずつ順位を上げ始めた。
(頑張って。後少しで4コーナーだよ)
4コーナーに入ると雄太は前に前にと追い出した。
直線コースに向かうと前を走っていた馬が外によれた。
(危ないっ‼)
雄太の馬が影響を受けそうになり、春香はドキリとして胸を押さえた。よれた馬に巻き込まれ落馬をするかと思えた瞬間、雄太はグンッと前に出た。
「パパっ‼ がんばってっ‼」
「パーパ。ガンバレェ〜、ガンバレェ〜」
「バンバエェ〜」
残り百五十メートルといったところで完璧に先頭に立った雄太はそのままゴール板を駆け抜けた。
「雄太くん、格好良い〜」
「ママ。パパかったね」
「パーパ、カッチャァ〜」
「パッパ、パッパ」
ヒヤリとした瞬間など、今まで何度も見てきた。
隙間が無いように見える間からもグンッと前に出て勝ったのを見てきた。
(やっぱり雄太くんは凄いよ。おめでとう、雄太くん)
優しい面差しからは想像出来ない強気な騎乗をする雄太を惚れ惚れと眺めていた。
スピードを落とした雄太が純也の馬の隣に並ぶと、純也の小さな声が雄太の耳に届いた。
「出遅れかましたし……。焦ってペース配分がちゃんと出来なかった……」
「ソル……」
十着に敗れた純也は悔しそうに鞭をギュッと握り締めた。
「けど、こいつ絶対に良い馬だって思うんだ。ゲート嫌がったりするのとか直ったら、勝てるって思ってんだよ」
「そうだな。このレースで終わりじゃない」
「ああ。俺が信じてやる。こいつは勝てるって」
純也は右手の拳を突きだした。それに応えるように雄太は左手の拳を握った。
「雄太。おめでとう。最後の直線はビビったけど、さすがだなって思ったぞ」
「俺もちょいビビった」
「だな」
コツンと拳をあてて、ニッと笑った二人はスタンドのほうへ向かった。
よれた馬は降着となった。騎手をしていればある事だ。どうやっても制御出来ない事もある。
躓いたり、何かに驚いたり、理由は様々だ。
(それでも、レース中の出来事は騎手の責任だもんな)
雄太も理不尽な野次を浴びせられたりする事も多い。だが、それを分かっていて騎手になると決めた。
(もし……子供達が騎手という仕事を選ぶなら、命がけだという事と理不尽な野次に晒されるんだというのは教えなきゃな)
今は雄太の騎乗している姿を見て応援しているだけだとは思う。
いつか騎手の先輩として教えていける日がくるかも知れないと思うと、慎一郎の気持ちがほんの少し分かった雄太だった。




