855話
3月18日(月曜日)
今日は凱央の幼稚園の卒園式だ。
濃紺のスーツに身を包んだ雄太は、何度も何度もネクタイを締め直していた。春香はオフホワイトのワンピースを着てクスクスと笑っている。
「雄太くん。あんまり締めてると首が締まっちゃうよ?」
「え? あ、うん」
入園式の時もだったなと思い出し笑いをしながら春香はネクタイを整えてやる。
その様子を悠助と俊洋はキョトンとした顔で見上げていた。
「パーパ、ジブンデデキナイノ?」
「え゙……」
「プッ」
悠助の素直な疑問に雄太は頬を染めてそっぽを向き、春香は吹き出した。
リビングのドアが開き、身支度を整えた凱央が、クスクスと笑っている春香を不思議そうに見た。
「ママ?」
「あ、凱央。お着替え出来たね。じゃあ、行こうか」
「ウン」
今日で凱央の幼稚園の制服姿も最後だと思うと感慨深い。元気に廊下を歩いている背中を見ながら春香は浮かぶ涙をそっと拭った。
玄関を出ると慎一郎と理保が笑って待っていてくれた。
「ジィジ、バァバ」
「凱央……」
ニッコリと笑った凱央に、何か言おうとした慎一郎は言葉を詰まらせた。理保は笑っているが目尻に涙が溜まっている。
「ジィジ、バァバ。イッテキマス」
門扉を開けると笑顔の純也と梅野が待ってくれていた。
「約束は幼稚園の前でって事だったけど、慎一郎調教師達との写真を撮ってやろうと思ってさぁ〜」
梅野は買ったばかりの新型のカメラを掲げて見せる。
慎一郎は、『気遣いの梅野』と言われるだけの事はあると笑って頷いた。
「ほら、並んで並んでぇ〜」
門扉の前で揃って写真を撮ってもらう。
「慎一郎調教師、ちゃんと引き伸ばしてお届けしますからねぇ〜」
「ああ。頼んだぞ、梅野」
今まで何度も撮影をしてくれた梅野のカメラの腕前を信用している慎一郎は深く頷いた。
慎一郎と理保に見送られ、通い慣れた幼稚園への道を凱央は悠助と手を繋いで歩く。その後を俊洋を肩車した純也とカメラを手にした梅野、そして雄太と春香が続く。
「後約一ヶ月で、この道を小学校の制服を着て歩くんだね」
「そうだな。あっという間だった気がするな」
凱央が通う小学校は道を挟んで幼稚園の隣にある。家からの距離はほぼ同じだ。若干、小学校のほうが近い。
「あ……」
「どうした?」
小学校のフェンスの所で春香は立ち止まった。
「ここ、健人くんと会った所なんだよね」
「健人と? てか、凱央と幼稚園に行く時も通ってただろ?」
「うん。何で思い出せなかったんだろ?」
「小学校の健人と……? あ、健人が謝って来たって言ってた時のヤツか」
「そうそう」
あの頃、小学生だった健人は千葉の競馬学校に行って、持ち前の明るさと頑張り屋の性格で頑張っているだろうと思う。
「あれから色々あって慌ただしくしてたからじゃないか? きっと卒園式って一区切りで、記憶が甦った……とか?」
「そうかも」
前を歩いていく凱央達の背中を見詰める。仲良く悠助と歩いている姿は、頼りになるお兄ちゃんだ。
「ほら、行こう。おいて行かれるぞ」
「うん」
このトレセンのある辺りも田んぼだった所は整地され、少しずつ新しい家が増えた。古い家屋も新しく建て替えられたりしてオシャレな家になった。
その中でも雄太の家はひときわ大きく、いずれ慎一郎達と敷地内同居をする為に土地も広い。
「幼稚園と小学校は近いけど、中学校は遠いんだよな」
「そうだね。自転車通学だよね?」
「ああ。雨の日はマジで嫌だったな。特に夏場は雨合羽が蒸れるんだよなぁ〜」
「うはぁ……。サウナみたいになりそう……」
騎手は減量の為に『汗取り』といってサウナを利用していると話した時に春香が凄く興味を持ったのだ。
サウナ未経験の春香が『一度経験してみたい』と言うので、東雲の店の近くにある銭湯で入ったらノボセてしまったのだ。
「凱央も頑張って通うんだよね」
「だな。てか、まだ小学校に入る前だぞ?」
「あ、そうだった」
にこやかに笑う雄太の腕に手を添えた春香は凱央達を追いかけるように、少し早足で歩いた。




