853話
3月8日(金曜日)
阪神競馬場の調整ルームで、雄太と梅野は缶コーヒーを飲みながら話していた。
「そうかぁ〜。もう凱央も卒園かぁ〜」
「ええ。それで、梅野さんが時間あるなら写真お願い出来ないかなって思って。18日の月曜日なんですけど」
「良いぞぉ〜。予定ないしな」
梅野はニッコリと笑って撮影を了承する。
「ありがとうございます。何か俺のほうがドキドキしちゃってて。落ち着かない感じなんですよ」
「そりゃ、可愛い我が子の節目だしなぁ〜」
「ははは。入園式の時よりドキドキしてますよ」
雄太は一口コーヒーを飲んで苦笑いを浮かべる。
ついこの前入園式だったような気もする。
「G1より緊張してたりしないよなぁ〜?」
「実はG1より緊張してます」
「おいおい〜」
梅野はゲラゲラと笑う。
梅野自身、初めてG1に出た時は緊張し過ぎて口の中がカラカラになっていたのだ。
騎手控室で水を飲もうと思ったのだが、手が震えて上手く飲めず、飲み過ぎてトイレにいきたくなっても困るからと、ずっと口の中に水を入れていたのを思い出した。
(俺も可愛いトコあったよなぁ〜)
小さく笑って、初G1が自分より若かった雄太を見る。
「あ、そう言えばぁ〜」
「はい?」
「先週、忍さんが現地観戦してたらしいなぁ〜」
「鈴掛さんが言ったんですか?」
照れまくっていた鈴掛が、かまいたがりの梅野に自分から言ったのかと雄太は目を丸くした。
「ああ。火曜日だったかな? スタンドで会った時にポロッと口を滑らしたって感じでぇ〜」
「そうなんですね。てか、奥さんが現地観戦って別におかしくないですよね?」
「全然、全くおかしくなんてないと思うぜぇ〜?」
雄太自身も春香や子供達に現地観戦をして欲しいと思う。
春香は小さな子供達を連れて競馬場に行くのを躊躇っていたが、馬主席から観戦させてもらったり、遠征先での観戦をするようになっている。
「浮足立ったりしないならモチベーションアップになると思うんだよなぁ〜」
「鈴掛さん、ちゃんと切り替えられますから大丈夫ですよね。まぁ、恥ずかしいって感じでしたよ?」
「鈴掛さん、再婚するって言ったのも俺達だけだったんだよぉ〜。そんなに恥ずかしがる事じゃないって俺も思うんだけどなぁ〜」
そんなに照れ屋だったとは思っていなかったから驚いたのは確かだ。梅野なら、若い妻を自慢しそうだと純也は言っていたのを思い出す。
「その内、忍さんに子供が出来るだろうし、身軽に動ける今の内に現地観戦してもらえば良いと思うんですよね」
「あ〜。そうだなぁ〜。特に妊娠初期は無理させらんないからなぁ〜」
雄太は春香が凱央を身籠った時に、細心の注意を払った事をはっきりと覚えている。
(階段禁止とか言ってたよなぁ〜。食べ物だって生物避けたり、冷えないようにしたり……。その腹にいた凱央が卒園だもんなぁ……。月日が経つのはマジで早いよな)
「忍さんが妊娠かぁ……。鈴掛さんのパパ姿を見てみたいなぁ〜」
「ですね」
鈴掛には、もう二度と会わないと決めたが娘がいる。必要以上に払った養育費の返金を求めない代わりに遺産の相続放棄をした後、二度と会わないと公正証書を交わしたと言っていた。
それは忍にも話したと言っていた。そして、それを分かった上で忍は鈴掛との結婚を望み、いつかは子供が欲しいと言ったそうだ。
(俺、いつか鈴掛さんと忍さんの子供が出来たら、凱央達にしてくれたように可愛がってやろう)
『二度と結婚はしない』と頑なだった鈴掛に寄り添った忍は、きっと優しく強い女性だと雄太達は思っている。
凱央達に接していた姿は、良い母親になるのではないかと慎一郎と理保が言っていた。
「まぁ、子供が出来るまでは忍さんの現地観戦をもっとさせてやって欲しいって、雄太からも言ってやればぁ〜? 忍さんが望んでるのなら……だけどさぁ〜」
「そうですね。今度、こっそりと訊いてみます」
「頼んだぞぉ〜。俺が言うと鈴掛さん警戒するからさぁ〜」
(それ、日頃の言動の所為ですって……)
思い遣りがあって気遣いが出来る梅野だが、つい茶化してしまうから信頼されないんだよなと雄太は思った。




