852話
3月3日(日曜日)
パドック横の騎手控室に入った雄太はフゥーと息を吐いた。一つ前のレースで三番人気たったのに、掲示板にも入れなかったからだ。
(駄目だ。反省は家に帰ってからだ)
ふと一番前のベンチに見知った背中が見えた。鈴掛だと分かって近寄ったが、鈴掛は近づいた雄太に気付かずに眉間に皺を寄せながらパドックを見ていた。
(……ん? 緊張してるのかな……?)
確かに重賞ではあるがG1ではない。弥生賞はG2だ。それなのに、鈴掛の表情は硬かった。
雄太の視線を感じたのか、鈴掛がフッと雄太を見た。
「あ……。雄太か……」
「えっと……」
「ん? 何だ?」
雄太は鈴掛の隣に座った。
「鈴掛さんが……何ていうか……。凄く緊張して見えたんで、声かけて良いのかなって」
「あ……ああ。別に緊張してた訳じゃなくて……な」
そう言って鈴掛はパドックのほうに視線をやった。歯切れが悪い鈴掛の様子を見て、雄太はピンときた。
「もしかして……?」
「ん……。まぁ……な」
雄太はこれ以上は言うまいと思い、ジッとパドックを見詰めた。その隣で鈴掛は静かに目を閉じた。
号令がかかり、目を開けた鈴掛はいつもの騎手鈴掛の顔をしていた。
中山競馬場 11R 第33回報知杯弥生賞 G2 15:40発走 芝2000m
雄太は三番人気、鈴掛は二番人気だ。
ゲートはスタンドの近くだ。まだ少し肌寒さが残っている観客席のざわめきが聞こえる。
ゲートが開いてスタンド前を通過すると湧く大歓声。
(雄太くん、頑張ってね)
「パパ〜。ガンバレェ〜」
「パーパ、パーパ。ガンバレ〜」
「パッパァ〜」
子供達が振り回し過ぎて壊れてしまったポンポンは新しく作った。また直ぐ作り直さなければならないが、子供達の熱の入った応援を見ていると、それもまた楽しいと春香は思っていた。
スタート直後、鈴掛は先頭集団に位置取り、雄太は後方につけて一度目の掲示板を過ぎた。
1コーナーを周っていく雄太の背中を見詰める。
殆ど順位が変わらないままだが、雄太は上手く外側に馬を持ち出している。3コーナーを過ぎ、4コーナーにかかると、少しずつ雄太は順位を上げていった。
少しずつ確実に順位を上げた雄太は、内にいた鈴掛の背中をとらえていた。
画面の中、四頭がほぼ横並びで競り合っている。
「頑張ってっ‼ 雄太くんっ‼」
「パパっ‼ マケナイデっ‼」
「ガンバレ、ガンバレ。パーパっ‼」
「パッパァ〜。パッパァ〜」
激しい四頭の競り合いから、徐々に雄太と鈴掛が抜け出した。
「雄太くんっ‼ 後少しっ‼ 後少し行ってっ‼」
「パパっ‼」
「パーパっ‼」
「パッパっ‼」
残り百メートルで雄太の馬が半馬身ほど差をつけて、そのままゴール板を駆け抜けた。
「雄太くん、格好良い〜」
「パパ、カッタァ〜。
「パーパ、イチバンナッタァ〜」
「パッパァ〜。カッチャァ〜、カッチャァ〜」
春香は膝をついて、子供達と接戦を征した雄太の勝利を抱き合って喜んでいた。
ゆっくりゆっくりスピードを落として、二千メートルを走り切り荒くなっている馬の呼吸を整えるように、優しく首筋をポンポンと叩いてから撫でてやる。
「お疲れ。ありがとうな」
スッと鈴掛が横に馬をつける。
「雄太、おめでとう」
「ありがとうございます」
負けた悔しさはあるだろう。だが、後輩の勝利を素直に喜んでやれる鈴掛は、やはり立派で尊敬出来ると雄太は思った。
「良い勝負だったな」
「そうですね。負けるもんかって気持ちで追ってましたよ」
「ははは。俺だって負けるつもりはないからな」
ゆっくりと向きを変えてスタンドのほうへ向かう。
「鈴掛さん」
「ん?」
「忍さんが来てるからって、手加減はしなかったですからね」
鈴掛の顔がビクッと引きつる。ヒクヒクと引きつらせながら、顔を背けた。
雄太はニヤリと笑った。
「たく……。当たり前だろ?」
「はい」
大切な女性がくるからと手加減をしないと雄太に言った言葉を返されて、鈴掛は苦笑いを浮かべるしかなかった。




