817話
東京競馬場 9R 第62回東京優駿 G1 15:30発走 芝2400m
(今年こそ……獲りたい……。絶対獲りたい……。獲りたいんだ……)
雄太は両手を組んで息を詰めてパドックを見ている。心臓がバクバクとしている。周りから見て声をかけられないぐらいに気合いが入っていた。
(雄太の気合いがコェ〜んだけどぉ……)
(雄太……、気合いが入りまくってオーラがモヤモヤァ〜って見える気がするぅ……)
純也と梅野の間に座っている雄太は、一言も話さずにいる。純也達はピリピリした空気が気になって仕方ない。何度もチラチラと横目で見ていた。
雄太はガラスの向こうのパドックでは騎乗馬達が周回している事に気づき、ハッと息を飲んだ。
(あ……。駄目だ、駄目だ。俺がこんなに入れ込んでちゃ、馬に影響出る。落ち着け、俺。ダービー獲りたいんだろ? なら、俺がしっかりしなくてどうするんだよ)
雄太はスゥ〜っと思いっきり息を吸い込んで、おもむろに両手で両頬をパンッと叩いた。
その音で純也と梅野がビクリと体を震わせる。
「ゆ……ゆ……雄太ぁ……?」
「雄太ぁ……。何だよ、いきなりぃ〜」
「あ、すみません」
目を丸くした純也と怪訝な顔をした梅野に、雄太はニヘラと笑った。
(あ、顔つきが変わった)
(入れ込みがなくなったかぁ〜。こいつの切り替えスイッチどうなってんだよぉ〜)
両の頬を赤くして笑った顔は凱央達にそっくりだなと二人は思った。
号令がかかり、雄太は大きく大きく息を吸い込んで思いっきり吐くとスッと立ち上がった。
(どう見ても普段の雄太だよなぁ〜。さっきのは何だったんだよ?)
(俺もダービー獲りたいから、さっきのままでも良かったんだぞぉ〜)
純也と梅野は凛とした背中の雄太の後について騎手控室を出た。
季節的に青空が広がっていそうなのに灰色の雲が空を覆っている。雄太はパドックを周回しながらチラリと空を見上げた。
(何で毎週曇りなんだよ……。降ってないから良いけど……)
雄太は三番人気で、純也は六番人気だ。そして、梅野は四番人気だった。雄太は自分より少し前を歩く緊張気味の純也の顔をチラリと見た。
真面目な顔をしているが、やはり緊張しているように見えた。
(あの顔つきだと、G1獲ったらって約束なんて飛んでんだろな)
梅野はいつも通り、優しい笑みを浮かべながら馬の機嫌を伺っているように感じた。時折、馬の首筋に手を当てたり擦ったりしている。
梅野は馬の機嫌の取り方が上手いと調教師も厩務員も言っていて、雄太も見習いたいと思っていた。
(うん……。あの馬は入れ込んでるな……。あの馬は……)
注意深く他の馬を観察していく。
雄太の夢であり、春香も応援してくれている東京優駿であり、子供達の名前にもなっている東京優駿だ。
本馬場入場をして、他の馬の状態を見て雄太の頭の中でレース展開を考え直していた。
大歓声と拍手、勝利馬と勝利騎手の名前が場内に響き渡る。
その様子を雄太はジッと見詰めていた。
(俺……、何でダービー勝てないんだろ……)
勝てなかった悔しさが胸にジワジワと広がっていく。観客の歓声を聞けば聞く程に自分の不甲斐なさが身に染みていく。
(馬の調子は良かった……。ミスったところもなかった……。それなのに……何で……勝てないんだろ……)
表彰式を見ていると、グルグルと思考は纏まらず落ち込んでいきそうになる。
ふいと胸元の指輪に手をあてる。
『雄太くん。大丈夫。雄太くんの夢は必ず叶うよ。私は信じてる。信じてるからね』
春香の声が聞こえた気がした。輝くような笑顔で両手を広げてくれている姿が脳裏に浮かぶ。
(よしっ‼ 来年頑張ろうっ‼ いつまでも悩むのはやめだっ‼ まだまだチャンスはあるっ‼ 諦める必要はないよな、春香。俺が獲らなきゃいけないのはダービーだけじゃない。それに新馬戦だって未勝利だってあるんだ。どんなレースだって大切に乗っていこう)
雄太はフッと笑うとその場を後にした。
心は既に自宅へと飛んでいた。




