75話
20時少し前。
雄太は、電話の前で目を閉じて正座をしていた。
(やっと市村さんに勝利報告が出来る……。これで一人前って訳じゃないけど、それでも一歩進んだんだ。俺の夢に一歩近付いたんだ。俺は……市村さんに好きと言えるくらいの男になりたい。隣に立って恥ずかしくない男になりたい。市村さんの笑顔を誰より近くで見ていたい……。傍に居て欲しい……。傍に居たい……)
初勝利を上げたとは言え、まだ子供だと言う自覚はある。
年齢的にも、社会人としても……。
焦っては駄目だとは分かっているが、それでも早く一人前になりたいと思っていた。
騎手としても、人としても……。
(早く部屋に戻らなきゃ)
VIPルームの片付けも、ミーティングもテキパキと済ませた。
来週の予約の確認もした。
社会人として、東雲マッサージ店の従業員としてやるべき事は完璧に済ませ、雄太から贈られた膝掛けを大切そうに抱えながら春香は自宅へと戻って行った。
そんな春香を、直樹と里美は顔を見合せた後、溜め息と共に見送った。
「アレ……だよな……」
「アレ……よね……」
土曜日のレースも、日曜日のレースも、ダイジェストの一瞬しか映らない雄太を見て、春香は目をキラキラと輝かせて見ていた。
(本当に恋をしているんだな……)
直樹は、今まで見た事がない春香を見て
(子供の成長は早いって言うけど……なぁ……。恋の自覚すらしてないのに あんなウキウキして……。春が……なぁ……)
と嬉しいような切ないような気持ちでいた。
騎手が外部と連絡がとれるようになるレース終了を、春香が心待ちにしているのは明らかだった。
『仕事を完璧にするならば、プライベートには余程の事以外は口を出さない』
そう言う主義の直樹と里美は、何も言えずにいた。
「鷹羽くんに電話番号を教えたって言ってけど……」
「春には、これぐらいしか楽しみがないんだろうな」
「分かるけど……。春香が『趣味は競馬』になってしまったら、私どうしたら良いのかしら……」
二人は、また深い溜め息を吐いた。
電話をソファーの所に持って行き、雄太からの電話を待つ。
ドキドキする胸を押さえ、深呼吸を二度した時、着信音が響いた。
受話器を取ると耳に届く優しい声。
『こんばんは、市村さん。鷹羽です』
「こんばんは、鷹羽さん」
『俺、勝ちました。一週間遅くなったけど勝ちました』
本当に嬉しそうな声が聞こえる。
「おめでとうございます。やりましたね。テレビではゴールの所しか映らなかったけど、ちゃんと見てました。鷹羽さん、格好良かったです。直接見たかったなぁ……」
嬉しさから、つい本音が漏れる。
『そう言ってもらえて 俺も嬉しいです。応援ありがとうございました』
雄太の嬉しそうな声を聞いていると、自然に笑顔になってしまう。
(不思議……。男のお客さんと話しても、こんな風に楽しいなんて思った事ないのに……)
「日曜日も格好良かったです。一度に二つも勝ったのを見られて、本当に嬉しいです」
『俺、これからも良い報告したいです。また電話しても良いですか?』
「本当に? これからも報告の電話してもらえるんですか?」
自分から『電話をしてきて欲しい』とは言えないと思っていた春香は、雄太の申し出が嬉しくてたまらなかった。
『はい。市村さんさえ良ければ。俺も、勝利報告聞いて欲しいですし』
「結果を知っていても、鷹羽さんから勝ったって聞かせてもらえるの嬉しいです。日曜日の夜が楽しみです」
趣味のひとつもなく、仕事ばかりの春香にとって、毎週雄太から報告が聞けるのは嬉しい事だった。
勿論、毎週勝てる保証などないのだけれど……。




