73話
3月7日(土曜日)
(絶対に満足出来ない走りはしない……。後悔するような走りはしない……)
雄太は、何度も何度も心の中で繰り返す。
(勝ちたいと思って勝てる訳じゃない……。けど、勝ちたいと思わず勝てるはずはない……。チャンスは必ずある。そのチャンスを0.1秒も遅れず掴むんだ。焦らず……冷静に……確実に)
雄太の後に出走する純也が声を掛けるのを躊躇うぐらいに、雄太は気合いが入っていた。
(俺、頑張れって言いたいんだけどなぁ……)
「こら。気合いを入れ過ぎても空回りするぞ?」
次走の前検量を終えた鈴掛に、コツンと頭を小突かれて雄太は振り向いた。
「え? あ……鈴掛さん……。はい」
そう答えて深呼吸をして、目を閉じた 。
(落ち着け、俺。大丈夫だ……。俺はやれる……。俺はやる)
(大丈夫そうだな。上手く気合いを操れるようになりやがって)
鈴掛は、初騎乗から一週間で成長した雄太の姿を見てホッとした。
そして、控え室の隅っこでチョコンと座っている純也の元へ向かった。
「お前は俺と一緒だな。手ぇ抜かないから覚悟しとけよ?」
鈴掛に言われ、純也はニヤッと笑った。
「望むところっすよ。俺も手ぇ抜かないっす」
「お? 生意気な奴だな。よしっ‼ 初勝利上げたら、ちょっと良い飯を奢ってやるぞ」
そう言って鈴掛は、まだ坊主頭の純也の頭をグリグリと撫でた。
(雄太にしろ、こいつにしろ、マジでやれるかもな)
考えてる以上に甘い世界じゃないと繰り返し教えて来た。
若い二人が、どれだけ理解しているかは分からない。
言われて分かる事ばかりじゃないと、自分も思っているし経験もして来た。
アドバイスをしても、それをどう受け止め自分の糧とするかは本人次第。
いつか挫折を味わう時が来るだろう。
それでも、雄太と純也が甘くない世界でトップを走って行く気がしてならない鈴掛だった。
阪神競馬場 3R 四歳未勝利
15:35発走 芝2200m
雄太は4番人気で、最終オッズは4.8倍だ。
(人気があろうがなかろうが、俺は俺の騎乗をするだけだ……。こいつの能力を生かした走りをするだけだ……。頑張ろうな。雨降ってるけど、まだ良馬場だ。落ち着いていけば大丈夫だ。未勝利から上がるんだぞ? 俺も、お前も)
雄太は、ゆっくりと深呼吸した。
(雄太ぁ~っ‼ 行けっ‼ 行けっ‼)
モニターを見ながら、純也は拳を握り締め雄太の応援をしていた。
競り合いが続きながらも、雄太は常に先頭集団にいた。
同じレースならライバルだが、別のレースなら、雄太は子供の頃からの大事な親友。応援しない訳がない。
ただ、デビューしたての純也は、たくさんの先輩達がいる控え室で大声を出す事はまだ出来なかった。
鈴掛は、モニターの近くで雄太の騎乗をじっと見ていた。
(あいつ、競り合いに負けん気出しやがって。本当に新人かよ。まだ二戦目だぞ?)
先輩騎手達に気後れするでもなく、競り合いにも臆する事なく、前目に出して行く雄太を見て ニヤリと笑う。
(まぁ、無駄に遠慮してりゃ勝鞍は上げらんねぇかならな。雄太っ‼ そこだっ‼ 後一追いしろっ‼)
雄太の耳に届いているのは、蹄鉄が地面を蹴り上げる音。
ゴゥゴゥと唸る風の音。
時間的に少なくはあるが人々の歓声。
後ろから来ているはずの馬の足音が遠ざかる。
(行ける……っ‼)
チラリとオーロラビジョンを見ると、自分の馬が先頭であるのが確認出来た。
ゴール板を駆け抜けた時には五馬身差の快勝だった。
グッと手綱を握る手に力が入った。
(俺……。俺、勝てた……。一着だぞ? 俺もお前も未勝利から脱出だな)
雄太は、ポンポンと馬の首筋を叩いて労った。




