732話
1月25日(火曜日)
朝の調教を終えた後、雄太は打ち合わせの為に江川厩舎を訪れていた。
江川は慎一郎と同年代の調教師だ。
「え?」
「どうした? 鷹羽くん」
「あ、すみません。えっと……何て言うか……胸がざわついたんで……」
何と表現して良いのかは分からない。胸騒ぎといった感じがしたのだ。
「ん? あ〜。奥さんの春香さん、そろそろ予定日じゃなかったか?」
「そうですけど……。でも、上の子の時は二人共こんな感じなかったんで……」
「それは、鷹羽くんが調整ルームにいたりして、意識が競馬に集中してたからだろう?」
江川の言う通り、凱央と悠助の時は雄太は調整ルームにいた。春香の事を考えたりしていたが、もしかすると今陣痛がきていたとしても駆けつけられないという意識があったのかも知れないと思った。
「とりあえず電話してみたらどうだ? 虫の知らせってやつかも知れないだろ?」
「でも……」
「打ち合わせは終わったんだ。電話して何でもなかったら、今から帰るって言えば良いだろ?」
「そう……ですね。電話お借りします」
雄太が頭を下げると、江川は優しい笑顔を浮かべた。
『お電話ありがとうございます。東雲マッサージ店です』
電話に出たのは春香だった。
「あ、春香。俺」
『雄太くん、どうかしたの?』
「えっと……変わりはないか?」
『大丈夫……じゃないかな。今、営業を終わろうとしてたの』
「だ……だ……大丈夫じゃないっ⁉」
春香は落ち着いているが、会話の内容に驚き雄太は声を上げた。
江川は雄太の声に驚き、パイプ椅子から立ち上がる。
『うん。さっき軽い陣痛がきたから、営業終了作業してたの』
「わ……分かった。今直ぐ帰るからっ‼」
『気をつけて帰ってきてね? 事故しないでね?』
「ああ」
雄太は電話をきると、ヘルメットと鞭を手にした。
「鷹羽くん。気をつけてな。春香さんによろしく」
「はいっ‼ 失礼しますっ‼」
焦り過ぎて転びそうになりながら駆けていく雄太の後ろ姿を、苦笑いしながら江川は見詰めていた。
(ハッハッハ。レースの時は小憎たらしいぐらいに落ち着いてる鷹羽くんがなぁ〜。しかも三人目だってのに、あんなに慌てるんだな)
他の調教師同様、雄太と春香の仲睦まじい姿を見てきた江川は、春香の安産を祈った。
地下駐車場に車を入れるのももどかしかった雄太は、店の駐車場に車を停めて部屋へと走った。
「は……春香っ‼ 大丈夫かっ⁉」
「あ、雄太くん。おかえりなさい」
春香は腹を撫でながら笑った。凱央と悠助はオモチャをバスケットに片付けていた。
「パパ、オカエリ〜」
「パーパー」
雄太は二人の頭を撫でながら、春香に声をかける。
「今は大丈夫なんだな? 荷物は?」
「後マザーバッグだけだよ」
そこに直樹が部屋に入ってきた。
「春、チャイルドシートは俺の車に……。お、雄太。おかえり」
「ただいま戻りました」
真冬だというのに薄っすらと汗をかいている雄太の姿に、直樹は春香の事が心配だったのだなと嬉しく思った。
「お疲れ。雄太、とりあえず着替えろ。汗かいたままだと風邪引くぞ」
「でも……」
「まだ直ぐ産まれるって感じじゃない。なんならシャワー浴びるぐらいの余裕はあるぞ? もし風邪引いたら赤ん坊と会えなくなるんだぞ?」
せっかく念願の立ち合い出産だというのに、その後赤ん坊に会えなくなるのは嫌だと思った雄太は、素直に直樹の言葉に従った。
(そうだよな。分娩室に入るのに汚れた体や服じゃマズいし)
手早くシャワーを浴びて、ドライヤーで髪を乾かした。脱衣所から出ると、春香は冷たい烏龍茶を差し出してくれた。
「ありがとう、春香」
「うん。やっと雄太くんが一緒にいてくれるの嬉しいな」
「ああ」
凱央の時から重幸や助産師から立ち合い出産の心得を聞いていた。落ち着いて出来るだろうかと思うが、出産という大仕事を控えた春香の傍にいられる事が嬉しかった。
「あら、雄太くん。準備万端ね」
「はい、お義母さん。春香、行こうか」
「うん」
そうして雄太達は重幸の病院へと向かった。




