722話
11月21日(日曜日)
京都競馬場ではマイルチャンピオンシップが開催される。
レースの合間、昼休みにアレックスの引退式が行われるという事で、更に多くのファンが詰めかけていた。
(本当に多くの人達がアルを応援してくれてたんだな……)
特別にパドックを歩かせてもらったアレックスの写真を撮る人達の中には、何度も目元を拭っている人もいる。
そして馬場での式の少し前、アレックスは苛ついた様子を見せた。まだ足が痛むのだろう。
「アル」
優しい呼び声にアレックスは勢いよく顔を上げた。そこには、クリーム色のワンピースを着た春香が立っていた。
「足が痛いのに、頑張って歩けたね。偉いよ」
小さく嘶いたアレックスは、近寄って鼻面を撫でてくれる春香に顔を寄せる。
その様子を少し離れた場所から雄太と飯塚は見守っていた。
「春香、ずっと会いたがってたんですよ。でも、足を痛めてる時に無理させたくないって……」
「ああ。電話をくれてね。アレックスの様子を訊いてくれたんだよ。申し訳ございませんって、何度も謝りながら……ね」
騎手の妻が差し出がましいかと思いますがと春香は言っていたが、飯塚は嬉しいと思ったし、馬主もありがたいと思っていた。
振り返った雄太に、馬主は無言で頷いている。
「凱央ちゃんと悠助ちゃんにも可愛がってもらえたよな」
「ええ。金曜日、調整ルームに入る前に凱央と悠助にアレックスが走れなくなって、トレセンからいなくなると話したんですよ」
悠助は意味が分からずにキョトンとしていたが、凱央はポロポロと涙を溢した。
「引退って事は理解出来なかったようですけど、アルがいなくのは理解出来たらしくて……」
「そうか……」
万が一、痛みでアレックスが暴れたりしたらという事で、子供達は離れた場所からアレックスを見ている。
凱央は、いつものように撫でたいと言わずに、必死で我慢しているようだった。
「アル。最後のレースは走れなかったけど、私の心の中でアルは一着でゴールしたよ」
春香の頬にスーっと涙がつたった。
「ここで見てるからね。行っておいで」
大きな拍手と歓声が沸き、アレックスは最後のターフへと向かった。引き綱を引く顔馴染みの厩務員の目も真っ赤だった。
「じゃあ行ってくるな」
「うん」
雄太は春香の髪を撫で、ゆっくりとアレックスの後を追った。
春香は雄太の背中と、出会った頃より白くなったアレックスを見詰めていた。
引退式を無事に終えたアレックスは、馬運車の待機しているほうに向かう。
春香は凱央の手を握り、ベビーカーに乗った悠助と手を振って見送っていた。
「ん? どうしたアレックス」
アレックスは春香のほうをジッと見て立ち止まって動かなくなってしまったのだ。
「ああ、そう言う事か。全く、お前と言う奴は」
苦笑いを浮かべた飯塚は、アレックスの首をポンポンと叩いた。
「春香さん、子供達とアレックスの傍に来てやってくれないか?」
「え?」
「このままここにいたら邪魔になるってアレックスに言ってやってくれるか?」
ピタリと立ち止まったアレックスとニッコリと笑った飯塚の近くにいくと、アレックスは春香に顔を寄せた。
「アル、格好良かったよ」
アレックスは鼻面を撫でてもらい、穏やかな表情を見せた。
飯塚は、次のレースの為にいない雄太の代わりに凱央を抱き上げた。凱央が手を差し出しアレックスの顔を撫でる。
「アウ、イイコイイコ。ガンバッタネ。ボク、アウダイシュキダヨ」
一生懸命に話しかける凱央の言葉に、飯塚の胸は熱くなった。
「次は悠助ちゃんだな」
飯塚は凱央を地面に下ろし、ベビーカーの悠助を抱き上げる。
「アーアー、アーアー」
悠助もアレックスの鼻面を撫でる。
アレックスに引退式前の苛立った様子はなく、大人しく子供達に撫でられていた。
飯塚は馴染みのカメラマンに声をかけ、アレックスと春香達の写真を撮ってくれるように掛け合ってくれた。
こうして、ゾルテアレックスはターフを去った。




