720話
10月27日(水曜日)
「ん? ちょっと待て……。こいつは……」
調教を終えたアレックスの歩様が乱れている事に気づいた飯塚が顔をしかめた。
(これは……)
その後の検査の結果に飯塚は肩を落とした。
「え? 繋靱帯炎……ですか……」
「ああ……。今朝の調教で気づいて、検査して……な」
大事な話があると呼ばれた飯塚厩舎の事務所で、パイプ椅子に座った雄太の声は小さく震えていた。
話をしている飯塚の声は固く苦しそうで、場の空気も重かった。
「走れるようになるには、前と同様半年はかかるって事でな……。馬主に報告して相談して、残念ながら……引退が決まったよ」
飯塚の言葉に雄太の胸がキリキリと痛み、握った鞭を折れるぐらいに握り締めた。
(カームの時と同じだなんて……。何で……)
カームの時の様にラストランと銘打ったレースを走らせてやる事が出来ないのだと思うと、残念で残念でならない。
アレックスと過ごした日々やレースの時の事を思い出すと目の奥が熱くなる。
「雄太くん。分かってるだろうが、繋靱帯炎は珍しい病気じゃない」
「え? あ……はい。知ってます」
「うむ。気に病むなよ? 雄太くんの所為じゃない」
「はい……」
雄太は飯塚の目が淋しそうで、自分より悔しいのだろうと思って、頭を深く下げて飯塚厩舎を後にした。
(春香、残念がるよな……。凱央も悠助も淋しがるだろうな……。けど……アルは俺の所有馬じゃない……。俺は、騎手でしかない……。春香は分かってくれているだろうけど、子供達に理解が出来るかな……)
カームが引退が決まりトレセンを離れる時、春香は泣きながらも理解を示した。だが、幼い子供達に理解は無理だろうと思う。
(こればっかりは仕方ないよな……)
小さく溜め息を吐いて、雄太は自宅に戻った。
夕飯を済ませ子供達を寝かせた後、春香にアレックスの事を伝えた。
「……アルが……?」
「ああ……。天皇賞がラストランだったんだけど、前走の京都大賞典が実質的にラストランって事になるんだ……」
雄太の言葉に春香は大きく目を見開いてポロポロと涙を溢した。
「アルが……カームと……同じ病気で……。同じように、天皇賞を走れないまま……」
「俺も、アルと天皇賞勝ちたかった……。勝つんだって思ってた……」
「うん……。うん……」
春香は、体を小さく震わせ両手で顔を覆って泣いていた。
結婚をするきっかけを与えてくれたカームと、凱央や悠助も可愛がっていたアレックスが同じ足の病気が原因で引退してしまう事になったのだ。
思う存分泣いた春香は真っ赤な目をして、雄太の腕をグッと掴んだ。
「ごめんね。つらいのは私だけじゃないよね。痛くてつらいのはアルだし、ラストランを走らせてやれなくなった馬主さんや飯塚調教師も残念でならないと思うし、ファンのかたも……。もちろん雄太くんもアルと天皇賞走りたかったよね……」
「そうだな」
立ち上がりタオルを取って戻り、春香の涙を拭ってやると、春香はまたも涙が流した。
「ごめん……なさい……。涙が止められ……なくて……」
「分かってるから」
他人に言わせれば、そこまで情をかけてしまうなら馬と関わらせないほうが良いかも知れないと言われるかも知れない。
だが、馬を愛してくれる春香が好きな雄太としては、今後関わらせないという選択肢はなかった。愛情を持ってくれているのが嬉しかったからだ。
(可愛がってたカームと同じって思うだけでも、かなりつらいよな……。俺立って、よくある病気だって分かってても、納得出来てないんだ……。アルは本当に良い奴で……相棒だったから)
春香には甘えん坊で、雄太には塩対応したりするが、レースとなったら安心して勝てると思える良い馬だった。
「今日は泣きたいだけ泣いても良いよ」
「うん……。ごめんね……。もう少し……もう少しだけ……」
雄太に肩を抱かれ、春香はアレックスを思い涙を流し続けていた。
10月29日、アレックスの引退が公式に発表された……。




