706話
5月30日(日曜日)
東京競馬場で開催される東京優駿。雄太が憧れて憧れてやまない東京優駿。
そのダービーに初めて出走する純也は、騎手控室で緊張しまくっていた。
「ゆ……雄太ぁ……」
「ん? どうした?」
「ヤ……ヤベェ……。緊張し過ぎて、心臓が口から飛び出そうなんだけどぉ……」
雄太は、隣に座っている純也を見詰めた。手袋を着けようとしているのだが、手が震えて上手く着けられないでいた。
「ほら、貸せよ」
「う……うん」
雄太は、差し出されたグローブを純也の右手に着けてやった。
続いて左手を差し出しながら、純也は落ち着いた様子の雄太に訊ねる。
「雄太は……緊張してねぇの……?」
「へ? まぁ多少は」
「多少かよっ⁉」
「ソルは、デビュー戦の時に陸上で県大に出る時と同じぐらいだって言ってたじゃじゃないか」
純也はちょっと唇を尖らせた。
「確かに言ったけどさぁ〜。やっぱダービーって違うなって思うんだよぉ〜」
「ソルは有馬記念に出たいとか言ってなかったか?」
「それはそれじゃないかよぉ〜」
「まぁ、そっか。デビュー戦とG1じゃ違うよな。悪い悪い」
グローブを着けてやり、両手に挟んでポンポンしてやる。
「何か……その余裕がムカつくんだけど」
「俺は慣れてるから」
「ムキーッ‼ ……あれ? 緊張なくなった」
「良かったな」
あり得ないぐらいの緊張が、いつものじゃれ合いで緊張が解けた純也は、精一杯の騎乗をして九着だった。
「悔しい……。けど、俺は精一杯やった」
「ああ。次は俺ももっと上にいってやるって思ってる」
「俺もだ」
「これからのメイクデビューで良い馬に出会えたら、絶対勝って、来年のダービーは獲りたい」
「だな。頑張ろうぜ、雄太」
「ああ」
三着だった雄太も、次はと思って勝利騎手インタビューを羨ましげに見ていた。
東京から自宅に戻った雄太は、そっと玄関ドアを開けた。
(あれ? リビングの電気点いてる……)
靴を脱いでいると、ドアが開いた音がした。
「おかえりなさい、雄太くん」
「ただいま。体調は大丈夫か?」
「うん。お疲れ様」
凱央の時も悠助の時も悪阻がなかったからといって、今回も大丈夫という事がどうかは分からないが、今のところ悪阻はない。
二人で並んで廊下を歩く。
「塩崎さんも頑張ってたね」
「ああ。騎乗前はメチャ緊張してたけどな」
「雄太くんは、初めてのダービーは緊張したでしょ?」
「そりゃ、もちろん」
雄太が国内で獲りたいと思い続けているダービー。
今日だって、純也の緊張を解してやりたくて、軽く言っていたが、本当は緊張していたのだ。
「いつかダービー獲って、春香と子供達と口取り写真に収まりたいな」
「うん。雄太くんの夢の一つだもんね」
「ああ」
にこやかに笑う春香と何度叶えたい夢を語っただろう。
来年のダービーを勝って、春香と子供達に喜んでもらえたら嬉しいと思った。
「お風呂終わったら、何飲む?」
「ん? 寝てても良いんだぞ?」
「え? もうちょっと雄太くんとお話したいんだけど……。駄目?」
ニコッと笑った春香が可愛くて、雄太はギュッと抱き締めた。
「じゃあ、アイスコーヒーな」
「うん」
春香は頷いてリビングのほうへと行き、雄太は風呂に入った。
雄太はアイスコーヒーで、春香は烏龍茶を飲みながら、寄り添いながらダービーの話しをしていた。
「そんなに塩崎さん緊張してたんだぁ……」
「ああ。初めてG1に出た時より緊張してたな」
普段、チャラいキャラの純也だが、競馬には真摯に向き合っているのは雄太達はもちろん、春香も分かっている。
「塩崎さんも、雄太くんも、もっともっとG1に出て勝っていけたら良いね」
「ああ。俺、春香との子供が欲しいって思った時に、稼げないなら子供は一人でも良いって思ってた。でもさ、凱央も悠助も可愛いし、またここに新しい生命がいるんだって思うと、もっともっと頑張るって春香に誓うよ」
「うん」
今度子供の名前を考えるのも楽しみな二人だった。




