695話
4月11日(日曜日)
今日は阪神競馬場で桜花賞が開催される。雄太と梅野が出走予定だ。
(雄太くん、頑張ってね。応援してるから)
出かける前に優しく抱き締めてくれた雄太を思い出すと心がポカポカしてくる。
お昼前、凱央は初めて一人で慎一郎宅へと向かって庭を歩いていた。
(大丈夫かな? ううん。ほんの数十メートルだもんね)
春香はウッドデッキで凱央を見守っている。慎一郎宅に着いた凱央は、窓硝子をコンコンと叩く。
その音に気づいた理保が窓を開ける。
「バァバァ〜」
「あら、凱央。一人できたの?」
「ン。イットニ、オヒユゴアンタベユヨ」
その言葉を聞いた理保は、ウッドデッキで凱央を見守っている春香を見つけた。その春香がペコリと頭を下げる。
(春香さん、、凱央に昼食のお誘いをさせたのね。敷地内の庭だし危なくないものね)
「はいはい、分かったわ。じゃあ、ママにお伺いしますって言って来てね?」
「アイ」
右手を高く挙げた凱央は、テッテッテと春香のほうへ戻って来た。
「マッマ。バァバ、オウタタイシマチュッテイッチャ」
「ありがとう、凱央。良い子ね」
ウッドデッキの階段を登った凱央の頭を撫でて抱き締めた。
理保も呼んでの昼食は、もう何度目になるだろう。子供達も嬉しそうだ。
「お義母さん。桜餅買ってきているんですよ」
「あら、嬉しいわ。私も、あのお店の桜餅大好きなの」
「うぐいす餅もありますから」
「ありがとう、春香さん」
理保の優しい笑顔は、やっぱり雄太に似ていると春香は思った。
リビングは、競馬中継が始まると一気に賑やかになる。
「ウースケ、パパラヨ」
「パー、パー」
パドックが映ると、凱央が画面を指差して、雄太だと悠助に教えている。
「あら。凱央は雄太の事をはっきりと分かるのね」
「そうなんです。パドックだけでなく、レースの最中馬群の中にいる時にも分かる時があるんです」
「あらあら。パパっ子の鏡ね」
理保は、ベビーゲートの前でキャッキャとはしゃぐ孫二人の背を見ながら微笑んでいる。
「雄太は本当に幸せね。こんなに可愛い応援団がいるのだから」
「はい」
凱央と悠助の両手には、ホログラムテープで作ったポンポンが握られている。窓から入る日差しを反射させてキラキラと光る。
「あの輪っかは輪投げの輪っかなの?」
「いえ。塩崎さんがゲームセンターで取ったっていうお菓子やオモチャに付いてた奴なんです。凱央達が握るのに丁度いいなって思って」
「そうなのね。輪投げの輪っかにしては小さいなって思ったのよ。上手く利用して作ったわね」
廃品を利用しているのを褒められるとは思わなかった春香が恥ずかしそうにする。
(春香さんは、雄太より若い頃からたくさんの収入があったのに、本当に控え目なのよね。こうやって手作りしたり、庭で野菜を育てたり。雄太は良いお嫁さんをもらったわ)
「マッマ、マタチタンイウオ」
「マタチタン? 春香さん。凱央は誰の事を言ってるの?」
凱央が振り返り、テレビの画面に向かって指をフリフリしているのを、理保は不思議に思い春香に訊ねた。
「梅野さんです。いつもおじちゃんって言っちゃうから、真希さんって言うんだよって教えたんですよ」
「あぁ〜。真希くんだからマタチタンなのね。子供って、あっという間に言葉の数が増えていくわね」
「はい」
凱央の言葉も増え、悠助も少しずつ意味のある言葉が増えてきている。時折、凱央が悠助の言葉を通訳してくれるのが不思議だ。
どう聞いても喃語なのだが、ちゃんと通訳してくれる。
「これから、もっともっと言葉が増えるわね」
「はい」
「この先、凱央がお誘いしに来てくれるのも楽しみだわ」
「そうですね」
春香と理保が話していると、凱央がポンポンを持って近づいてきた。
「マッマ。バァバ。パッパハシユノヨ」
「あ、もう出走ね」
「パパを応援しようね、凱央」
「ン」
ゲート裏で輪乗りしている雄太を見て呼びに来てくれた凱央のしっかりした姿に春香も理保も笑顔が溢れた。




