694話
4月9日(金曜日)
雄太は、阪神競馬場の調整ルームに向かう準備を終えてリビングのドアを開けた。
「あ、雄太くん。悠助を見て」
「パー、パー」
「え? ゆ……悠助……?」
昨日まで、一歩踏み出しては立ち止まったり、尻もちをついていた悠助が、ヨチヨチと雄太に近づいて来たのだ。
「……悠助、こんなに歩けたっけ……?」
「何か、急にバランスが取れたみたいなの」
雄太はバッグを置いて膝をつくと、悠助に向かって手を伸ばした。
「ほら、悠助。後もうちょっとだ。頑張れ」
「パー」
「ウースケ、バンバエ〜」
ヨチヨチ歩く悠助の後ろを付き添うようにしながら、凱央が応援をしている。
両手を前に伸ばしながら、一歩一歩近づいて来た悠助の指が雄太の指に触れる。ニコッと笑って雄太の腕に掴まった悠助を抱き上げた。
「パー」
「悠助、えらいぞ。よく頑張ったな」
悠助は小さな手で雄太の頬をペチペチと叩いた。
「あ〜。気合い入ったぞ。頑張ってくるからな」
「パッパ、バンバエ。オウエンシユ」
凱央が雄太に向かってピョンピョンと跳ねながら抱っこアピールをしている。雄太は、もう一度しゃがんで凱央も抱き上げた。
「ありがとうな、凱央」
「ン」
日に日にグングンと成長する凱央と悠助に、雄太の胸は熱くなった。
調整ルームに入ると、純也がポテチの大袋三袋抱えながら歩いていた。
「お前……。調整ルームにどんだけ持ち込んでるんだよ……」
「おう、雄太。これか? 小腹減った時対策だよ」
「……お前、常に腹減ってるだろ?」
「んな事はねぇぞ? 腹パンになるぐらい飯食った後は大丈夫だもんよ」
「そりゃそうだろ」
ゲラゲラ笑いながら、いつものように雄太の部屋へと並んで歩く。
部屋に入りジャケットを脱いだ雄太はハンガーに掛けて、移動中に固まった筋肉を解すようにした。
「あれ? 雄太、指輪つけてたネックレスの皮の奴、新しくしたんだ?」
「ああ。汗とかで劣化してきたから、新しいの作ってもらったんだ」
雄太は結婚指輪をつけてあるネックレスを服の下から取り出す。
「今度のも良い色だな」
「だろ? 春香が色を選んでくれたんだ」
「さり気なくノロケやがって」
純也に言われて、雄太はニヤリと笑う。
「これは俺の御守りだからさ」
「だな。春さんといつも一緒って奴だもんな。もし、切れて指輪なくすとか嫌だもんな」
「ああ」
入籍の時には雄太も春香も結婚指輪を買うという事を忘れていて、後にオーダーした結婚指輪。
勝利騎手インタビューの時に、いつも胸に手をやっているのは、テレビを見ているとは思うが春香への報告のつもりだった。
「雄太ぁ〜」
「あ、梅野さん」
ドアを開けて顔を覗かせた梅野は、缶コーヒーを三本手に部屋へと入って来た。
梅野はポイポイと雄太と純也に缶コーヒーを投げ渡す。
「ありがとうございます」
「サンキュっす」
雄太と純也が礼を口にすると、ニッと笑った梅野はどっかりと床に座り込んだ。
「あのさぁ〜。雄太に訊きたい事があったんだよぉ〜」
「何ですか?」
「今更なんだけど、悠助って卵とか牛乳のアレルギーなかったんだよなぁ〜?」
「え? 大丈夫ですけど?」
梅野は一口コーヒーを飲むと、ホッと息を吐いた。
「ほら、前にフルーツタルト持ってっただろぉ〜? あん時、春香さんがフルーツだけを食べさせてたのか覚えてなくてさぁ〜」
「ああ〜。あん時、梅野さん酔っ払いまくってましたもんね」
「そうなんだなよなぁ〜」
梅野が照れくさそうに言うと、純也はポテチの袋を開けながら笑った。
「んで、卵と牛乳って?」
「アレルギーがあると大変だから、乳幼児は注意しなきゃ駄目なんだよ」
雄太の説明に、梅野が深く頷いた。
「タルト生地とカスタードクリームも牛乳と卵使ってるなって、後で思い出したんだよなぁ〜。ほら、悠助の誕生日の時の事を考えて、素面の時に訊いておこうって思ったんだよぉ〜」
「ありがとうございます」
次も梅野はケーキ担当なのだと理解した雄太は、ニッコリと笑いながら礼を述べた。




