692話
4月4日(日曜日)
阪神競馬場 11R 第37回産經大阪杯 G2 15:45発走 芝2000m
ゲートはスタンド前だ。大観衆の歓声が雄太の耳に届く。
「凄い歓声だな、アル。全員じゃないだろうけど、多くの人達がお前の走りに期待してるんだぞ」
春の雨がアレックスのたてがみを濡らす。
(雨の芝は滑りやすいんだよな。砂埃が舞わないのは良いんだけど……。雨が苦手じゃないアルだけど、滑らない事を祈るしかないな)
ファンファーレが鳴り響き、アレックスはグッと前を向いた。
(良い気合いだな)
雄太も顔を上げて雨が降るターフを見詰めた。
春香はソファーに座り、子供達はベビーゲートのギリギリまで近づきテレビに齧り付いていた。
「パッパ、バンバエ〜。アウ〜、バンバエ〜」
「バババゥア〜。ウォアウァ〜」
(雄太くん、子供達も応援してるよ。頑張ってね)
スタジオでは、優勝馬の予想がされていた。予想は一番人気のアレックスではなかった。
骨折休養明けという部分も心配の要素ではあるのだろう。分かってはいるが、春香は頬を膨らませる。
(ムゥ……。アルじゃない……。良いもん。予想は予想だもん。私の本命は雄太くんだもん)
いつだって、どんな馬に乗っていても、春香は雄太が大本命で揺るがないのだ。
画面にゲートインしていく馬とゲートに入ったアレックスが映る。
春香は、ゲートに入った雄太とアレックスを祈る気持ちで見詰めていた。
(雨……激しいな……。アル、大丈夫かな……。雄太くん、アル。気をつけてね)
テレビからは、バシャバシャと雨の激しさを伝えてくる音が聞こえていた。
ゲート内で後ろ蹴りをしていた馬が二頭いたが、落ち着いたタイミングでゲートが開いた。綺麗なスタートをきったアレックスは先頭に立った。
一度目のゴール板前で、他の馬が先頭になったが、アレックスはかかる事なく、久し振りのレースとは思えない安定した力強い走りを見せる。その姿に観客席から声援と拍手が飛ぶ。
アレックスは三番手辺りをキープしながら、1コーナーを過ぎ、向こう正面に差し掛かった。アレックスのキックバックの芝や泥の跳ね具合が力強さを物語っていた。
3コーナーにかかると、アレックスが順位を上げるべく加速を始めた。それにつられるように、他馬も速度が上がった。
「アウ〜。バンバエ〜」
(アル……。足は大丈夫かな……。最後まで無事に走って……。お願い)
凱央がポンポンを振り上げているのを見ながら、春香は祈り続けていた。アレックスの無事の完走を。
握り締めた手が白くなるぐらいに力が入っていた。
(ちょっと深呼吸しよう……。私がこんなになってたら、雄太くんに申し訳ないよ)
4コーナーにさしかかったアレックスは先頭を走っていた馬の横に並んだ。
甘えてくる姿からは想像も出来ない、負けず嫌いなアレックスがグンッと前に出る。弾むたてがみとなびく尻尾が雨粒を飛ばしていた。
最終コーナーを曲がりきると、アレックスは一気に前に出て先頭に立つ。
「アルっ‼ 雄太くんっ‼ そのまま行ってぇ〜っ‼」
「アウ〜っ‼ バンバエ〜っ‼ パッパっ‼ バンバエ〜っ‼」
画面いっぱいにアレックスと雄太が映る。春香は思わずソファーから立ち上がった。
凱央はポンポンを放り投げ、足を踏み鳴らし声援を送っている。
直線に入ると、アレックスはグングンと加速して独走状態になった。骨折をした休養明けとは思えない走りに、場内のざわめきが大きくなる。
アレックスは、独走状態を保ったままゴール板を駆け抜けた。掲示板に灯ったのは『レコード』の文字だ。
再び、大きな大きな歓声が湧き上がった。
「ハァ……ハァ……。アル、やったな。本当、お前は凄い奴だよ」
荒い息を吐きながら、雄太はアレックスの速度を少しずつ落としていく。
アレックスが骨折して以降、心配や不安があった。その中でも、たくさんの人達の思いや願いが雄太を支えてくれていた。その全ての人達に感謝をしていた雄太だった。




