687話
3月23日(火曜日)
来月四日に、久し振りにレースに出るアレックスの様子を見に、雄太は飯塚厩舎を訪れた。
調教が終わったアレックスは、厩舎前でキリッとした表情で佇んでいた。体調万全と言った毛艶で、たてがみや尻尾が春の風に揺れている。
「アル」
声をかけられクイッと顔を上げたアレックスは、調教の格好をした雄太の姿を見てフイッと顔を背けた。
「お……お……お前なっ‼ 春香の時とマジで態度違うよなっ⁉ 知ってたけどっ‼」
「ハッハッハ。相変わらずだな」
「調教師。本当、こいつ中に人が入ってんじゃないですか?」
大笑いしながら歩いてきた飯塚に雄太は呆れたように言う。
「実はそうなのかも知れんな。背中だと雄太くんに気づかれるから腹にファスナーがあるかも知れんぞ?」
「馬鹿だと思われるかも知れませんが、マジでそんな気がしてますよ……。俺に対する態度と春香に対する態度があからさま過ぎて、もう」
苦笑いを浮かべながらアレックスに近づいた雄太は、アレックスの首を優しく撫でる。
「なぁ、アル。久し振りのレースだな。頑張ろうな」
アレックスは大人しく撫でられていたが、ふと思い出したように首を上げてキョロキョロと辺りを見回す。
それが何を意味しているのか分かってしまう。
「春香はいないぞ? また遊びにきてくれるからな」
アレックスは分かったという風に首を上下させた。
「よしよし。頑張ろうな」
また首を撫でようと手を伸ばした雄太の手を振り払うように、首をブンブンと振った。
「お……お前なぁ……。可愛くないぞ?」
雄太とアレックスの漫才のようなやり取りを、飯塚と厩務員達はゲラゲラと笑う。
「本当、良いコンビだよ。雄太くん」
「調教師、笑い事じゃないですよ」
アレックスの復帰戦となる産經大阪杯は4月4日だ。
帰宅した雄太は、今日のアレックスの様子を春香に話した。
「ふふふ。アル、調子良いんだね。良かった」
「ああ。毛艶もツヤツヤしてたし、飼い葉食いも良いって聞いたぞ」
「うん」
本当はレース前に会いたいと思ってたのだが、まだ骨折の再発を気にする春香は、あまりレース前には会わないと決めていた。
「レース終わったら会いに行ってやろうな?」
「うん。後何回レースに出られるか分からないもんね」
「そうだな。アルも、もう七歳だ。馬にもよるけど、そろそろピークは過ぎててもおかしくないからな」
骨折した時に引退をしていてもおかしくないと、飯塚も言っていた。それでも、馬主も『もう一度走るアレックスを見たい。もう一度優勝レイを着けたアレックスが見たい』と現役を続けられるようにと願った。
医師、飯塚や厩務員、そして雄太も、その願いを叶える為に頑張った。
「無理はしないで欲しいって気持ちと、アルが一着でゴール板を駆け抜けるのが見たいって気持ちがあるの」
「それは、俺もだ。だから、飯塚調教師の為にも、馬主の為にも、精一杯良い騎乗をする。もちろん、アルのファンや春香や子供達の為にもな」
「うん」
雄太達の話しをソファー前の床に座って聞いていた凱央は、アレックス似のぬいぐるみを抱きかかえている。
「パッパ、アウハチル?」
「そうだぞ。またパパと一緒に頑張るんだ」
「アウ、バンバエシユノ」
「ああ。頑張れって応援してやってくれよな」
「ン」
悠助がテッテッテとハイハイをしてソファーに近づき、座面に手をかけて立ち上がる。
「悠助、もう一人で歩けるんじゃないかって思うんだよね」
「来月には一歳になるんだもんな」
伝い歩きは出来るようにはなっていた。手を離して立っている事はあるが、一歩が踏み出せないのか、少しするとペタンと座り込んでしまうのだ。
「アウチャウバダァ〜」
「……何て言ってるんだろな?」
「……分かんない」
悠助が雄太達のほうを見て何か言っているのだが、全く理解出来なかった。
「ウースケ、アユケユイッチェル」
「は?」
「そ……そうなの?」
「ン」
凱央の通訳に、雄太と春香は顔を見合わせていた。




