668話
夏競馬が始まり、雄太の遠征先は小倉に決まっていた。
その頃、凱央にある変化が現れた。
「パッパァ〜、パッパァ〜」
「よしよし、凱央。ほら、抱っこしてやるから、もう泣くんじゃないぞ?」
「パッパァ……」
凱央が雄太の後追いをするようになってしまったのだ。
出かける前の数分ではあるのだが、泣いて縋られる為に、雄太は後ろ髪を引かれる思いであった。
グスグスと泣きじゃくり、雄太の後ろをついて歩き、抱っこをせがむのだ。
「凱央、ママと悠助と良い子でお留守番しててくれよな? パパ、小倉でお仕事頑張ってくるからな?」
「パッパ、オシオトバンバユ?」
「そうだぞ。帰って来たらプールしような?」
「ン。プーウシユ」
「ああ。だから、もう泣くんじゃないぞ?」
「ン」
涙でグショグショの顔を見せられると切なくなるが、調整ルームに入る時間に遅れる訳にはいかない。
春香が手にしていたタオルを雄太に手渡し、雄太は凱央の顔を拭った。
「お土産買ってくるから、ちゃんとママの言う事を聞くんだぞ?」
「アイ。ワチャッチャ」
凱央は泣くのを我慢している顔で、雄太に縋っていた。
雄太が出かけた後、リビングに戻ると凱央はしばらくは元気がない。
悠助をベビーベッドに寝かせると、リビングで遊んでいる凱央を見ていると、草津のマンションであった事を思い出す
(まだ二歳だもんね……。大好きなパパが居ないの淋しいって思うの仕方ないよね。私が悠助に手を取られて、凱央との時間が減ってるのが原因なんだろうな……)
「凱央、おいで〜。一緒にパパのビデオ見ようね」
「マッマァ〜。パッパ、ミユ〜」
ソファーに座って、しっかりと抱き締めてやる。凱央は、まだグスグスと鼻をすすりながら春香にしがみつく。
だが、雄太の映像を流すと凱央は目をキラキラと輝かせながら、ジッと見ていた。何度も見た映像であっても、やはり凱央は両手をフリフリしながら応援をしていた。
「パッパァ〜、アッコイイ〜」
「格好良いね〜」
動画を見た後、凱央のご機嫌はすっかり治っていた。
「まだ悠助起きないみたいだし、ママと遊ぶ?」
「アイ。アショブ〜」
その時、インターホンが鳴った。春香は凱央を抱っこをしてモニターを見た。そこには、鮮やかな赤いキャップをかぶった健人が立っていた。
「あ、健人くん」
『春香ぁ〜。凱央、起きてる?』
名前を呼ばれた事でモニターを覗き込んだ凱央は、画面の健人に笑顔を向けた。
「エントニータン、エントニータン」
『お、凱央。遊ぼうぜ』
春香は門扉のロックを解除して玄関へ向かった。
健人は、門扉を開けて自転車を敷地内に入れていた。凱央は玄関で大きく手を振っている。
「エントニータン〜」
「凱央、何して遊ぶ? ブランコか?」
「プーウシュル〜」
「プール? 俺、海パン持って来てねぇぞ? ん〜。よし、取ってくるから待ってろ」
健人は入れたばかりの自転車の向きを変える。
「ちょっと健人くん。わざわざ……」
「良いって。近いんだから。パパッて行ってくっから、春香はプールの準備しておいてくれよな〜」
健人は明るく笑って手を振って自宅のほうへ向かっていった。
春香は笑って健人を見送り、悠助の様子を見にリビングに入った。悠助は、まだスヤスヤと眠っていた。
「凱央、ママはプールにお水入れるから、悠助が泣いたら教えてね?」
「アイ」
春香はウッドデッキに出てビニールプールを広げ、ホースで水を入れ始めた。
(悠助は……まだプールは早いよね。来年は、凱央と悠助でプール遊びさせてあげられるよね。楽しみだなぁ〜)
「あら、春香さん。凱央、プールさせるのね」
「あ、はい」
理保は、自宅のリビングの窓から庭に出ると、ウッドデッキに近づいた。
「子供用のビニールプールなんて久し振りに見るわ」
「雄太くんも、よくプール遊びしてました?」
「そうね。ご近所の同年代の子供達と遊んでたわ。懐かしいわね」
理保は雄太が小さい頃を思い出しているのだろう。優しい眼差しで、ビニールプールを眺めていた。




