666話
悠助の宮参りが済み、栗東での生活が始まって間もないというのに、帰宅した雄太の言葉に春香は目を見開いて固まってしまった。ドクンドクンと心臓が大きな音をたてる。
「ア……アル……が……?」
ようやく絞り出した声は震えていた。力が抜け、フラフラとソファーに座り込んだ。雄太は春香の隣に座り、両手をギュッと握り締めた。
「うん……。今朝の調教で骨折したって事を厩務員の人に教えてもらっただけだから、まだ詳しい症状とかは聞けてないんだ」
「骨折……」
騎手である雄太と一緒にいる事で春香も『馬の骨折が、命に関わる事もある』と言う事は分かっていた。
雄太が落ち着いて話しているから、最悪の事態ではないとは分かってはいる。
「明日、詳しい話を聞いてく……春香?」
「ご……ごめんなさい。ちょっと……」
春香は、そう言って胸に手を当てて深呼吸を何度かした。
雄太は春香の背中を擦る。
「絶対とは言わないけど大丈夫だと思う。しばらく走れなくなるのは避けられないけど」
「うん……。そうだね……」
直ぐに安楽死の措置が取られていない事で、アレックスが今は無事だという事は分かっている。
(だけど……競争能力喪失って事もあるなんて、今の春香には言えないな……)
その時、リビングの隅に置いてあるベビーベッドから悠助の泣き声が聞こえた。
ハッとして春香はスッと立ち上がった。その顔はしっかりと母親の顔で、アレックスの骨折に動揺していたのが嘘のようだ。
雄太はホッと息を吐いて、春香の部屋で昼寝をしている凱央の様子を見に行った。凱央はお気に入りのアレックス似のぬいぐるみを抱き締めるようにしてスヤスヤと眠っていた。
(凱央も、アルに会いたいだろうな……。しばらく会えてないし……)
栗東に戻ってきたのだから、春香の体調を見て散歩がてら厩舎に行くのも良いなと考えていたのだ。
(とりあえず、明日調教師に詳しい事を訊けたら良いな……)
雄太は小さく溜め息を吐いた。
翌日、頼まれていた調教を終えた雄太は飯塚厩舎へと向かった。
馬房前にいた飯塚に声をかけた。
「飯塚調教師」
「ん? ああ、雄太くん」
一瞬の沈黙の後、雄太が何が訊きたいのか分かっている飯塚はフゥと小さく息を吐いた。
「アルは長期離脱する事になったよ」
「……って事は……」
「ああ。骨折箇所がもう少しズレてたら再起不能だったかも知れんが、何とか競争能力喪失は免れた。ただ、馬によっては走る気にならんかも分からんが……な」
もし、競争能力喪失となったとしても、アレックスの戦績なら種牡馬になる事は出来るだろう。
「儂もヒヤヒヤしたが、馬主が、また走るアルを見たいと言ってな」
「そうですか。良かった。俺、乗せてもらえるなら、またアルとレースに出たいです」
雄太の言葉に飯塚は小さく笑った。
「雄太くんなら、そう言うと思っていたよ。ただ、前のように走れるかは分からんぞ?」
「……分かっています」
「そうか。馬主にも、雄太くんが待っていてくれると伝えておくよ」
「はい」
雄太は、アレックスとまた走れる事を祈りながら帰宅した。
帰宅した雄太は、飯塚に言われた事を春香に伝えた。
春香の目が潤む。そして、ホッとした顔で雄太を見詰めた。
「絶対に復帰出来るとも、前のように走れるとも言えない。けど、俺は信じて待ってようと思うんだ」
「うん」
雄太には、春香のもどかしい思いが伝わってきた。もし、神の手が馬にも仕えるならばと考えているだろうと。
だが、人間相手であっても、骨折には効果がないのだ。分かっているからこそ、無力な事がつらいと春香は思っていた。
「後は、アルの回復力と、また走りたいって思ってくれる事を信じてような?」
「私も信じる。アルが、また一着でゴールしてくれるのを見たいから」
震える声で言って、涙をグイッと拭った春香をそっと抱き締める。
(今は、信じて待つしかない。頑張れよ、アル)
後日、アレックスは北海道へと放牧に出された。




