656話
だんだんと間隔が短くなり、強さを増してくる陣痛に、春香は余裕がなくなってきていた。
「ん……くぅ……」
「マッマ……タイタイ?」
凱央が目にいっぱい涙をためながら訊ねてくる。ベッドで横になりながら春香は、凱央の小さな手を握った。
「大丈夫だから……ね」
「マッマァ……」
直樹達が一生懸命に凱央のご機嫌をとろうとするのだが、凱央は春香の傍を離れようとしなかった。
「良い子だね、凱央。泣いちゃ駄目よ? もう直ぐお兄ちゃんになるんだからね? 赤ちゃんを待っててあげてね?」
「アタタン、マチュ」
「うん。ママ、頑張るからね」
「マッマ、バンバエ」
タオルで汗を拭いながら凱央の頭を撫でる。意味は分からなくても、苦しむ春香の様子から、ただ事ではないと思い寄り添おうとしている幼子に、直樹達は優しい雄太を重ねて見ていた。
夕日が空を赤く染める頃、雄太達の第二子の男の子は元気な産声を上げた。
「あぁ……。可愛いな」
「凱央より少し大きいけど、あまり分からないわね」
直樹と里美は、真っ白な産着に包まれた赤ん坊を眺めていた。
分娩室に向かった春香を泣いて見送っていた凱央は、まだグズグズと泣いていたが、分娩台で微笑む春香に撫でられ少し落ち着いたようだ。
「マッマァ……」
「凱央、良い子ね。ママは凱央が大好きだよ」
「ン」
理保は凱央の横にしゃがみ込み、温タオルで顔を拭いてやった。
「ほら、ママは大丈夫。もう泣かないのよ?」
「アイ、バァバ」
しばらくして病室に戻った春香は、直樹に、凱央の靴を脱がせてベッドに乗せてもらった。
「マッマァ〜」
「凱央、良い子で我慢出来たね。お兄ちゃんになったもんね」
「オイータン、ナッチャ」
「うん」
まだまだ疲れは残っているが、泣きながら弟の誕生を待っていた凱央をギュッと抱き締めた。
幼い凱央にとって、酷く長く感じた時間だっただろうと思う。この先、赤ん坊の世話に追われ、凱央をかまう時間が減るかも知れないと思うと、今は甘えさせたいと思ったのだ。
軽くドアをノックする音がして、春香が返事をすると病室のドアが開いて慎一郎が顔を出した。直樹達に会釈するとベッドに近寄った。
「お義父さん」
「春香さん、お疲れ様だったね」
「はい。お義父さんもお疲れ様でした」
理保が出かける前に、重幸の病院へと行くと書いたメモを置いてきたと言っていた。それを見た慎一郎は喜びいさんで来たのだろう。
「ジィジ、アタタンキチャ」
「そうだな、凱央」
ベッドの上で慎一郎に報告する凱央は、どこか誇らしげだ。
「あなた、新生児室に行きますか?」
「そうだな。さっそく孫の顔を見てくるかな」
「ふふふ。あなたの楽しみが、また増えたんですよ?」
「……と、言う事は……」
「ええ、元気な元気な男の子です」
そんな会話をしながら、慎一郎達は新生児室へ向かって行った。
「鷹羽さん、本当に嬉しいのね」
「そうだな。目尻が下がりっ放しだったな」
「直樹もだけどね」
里美に言われて苦笑いを浮かべた直樹を見て、春香は小さく笑った。
新生児室から戻った慎一郎に、春香はニッコリと笑って、凱央の時と同じように白い布とマジックを差し出した。
「ははは。今回も雄太は立ち会えなかったからな」
「はい。お義父さん、お願いします」
「分かった。で、名前は? もう決めているんだったな?」
「はい。今回は雄太くんが決めてくれたんです」
「ほう、あいつがか」
慎一郎は、雄太が考えたと言う名前、日付などを書いて、直樹に手渡した。
「東雲さん、よろしくお願いします」
「任されました。鷹羽さんは、明日も明後日も京都で馬を出されるんですよね?」
「ええ。出産祝いとして勝ってくれるように祈りますよ」
続けて命名書を書いて、慎一郎達は病室を後にした。
「良い名前でしたね」
「ん? ああ、あいつの思いなんだろうな」
慎一郎は運転しながら、雄太が真剣に名前を考えている姿を想像し、どれだけ春香を大切に思っているのかが理解出来て、明日会った時に笑いが我慢出来るかなと思っていた。




