647話
喫茶店に着いた時、凱央は涙と鼻水で顔をグシャグシャにしていた。
驚いたのは、店内で待っていた鈴掛やマスターである。
「ど……ど……どうした、凱央」
「大泣きじゃないか」
「何があったんだぁ〜?」
雄太に抱かれグスグスと泣いていた凱央は、純也達の声を聞いてそちらを見ると目を大きくして泣きやんだ。
店内には、カラフルなバルーンアートがいくつも置いてあったのだ。
「ウーセンっ‼」
「ウーセン? あ、風船か?」
純也が凱央に風船の犬を差し出した。受け取ろうとした凱央の手から水色の風船の残骸がポトリと落ちた。
「ウォウ、アート」
「どういたしまして」
純也が笑いながら落ちた物を拾う。
「とりあえず、凱央の機嫌も治ったし始めようか」
鈴掛が凱央の頭を撫でながら言った。
「なるほどな。この破れた風船は、そう言う事だったんだな」
「車の中だったから音が結構してさ、運転してて心臓がバクンッてなったよ」
水色の風船の残骸の説明をすると純也達はうんうんと頷いた。
当の凱央は、飾っていた風船の飾りをテーブルなどを退けた所に置いてもらい、女性スタッフと遊んでいる。
「私もビクッてなっちゃった。油断している時の風船の破裂音って、凄く大きく聞こえるね」
「俺も駄目だぁ〜。ビビっちゃうんだよな、あの音ぉ〜」
「ですよねぇ〜」
鈴掛も頷きながら、ビールを飲んでいる。
「あれをマスターするまで何度破裂させたか」
「鈴掛さん、器用ですね」
「まぁな」
凱央が喜んで遊んでいる風船の犬や花や飛行機は、細長い風船を買ってきた鈴掛がせっせと調教終わりに作っていたと言うのだから、雄太も春香も驚いた。
「あ、そうだ。お前らに言っておく事があったんだ」
鈴掛はそう言って、皆の顔を見回した。視線が集まったのを見て頷くと、鈴掛はコホンと咳払いをした。
「えっと……な。今……付き合ってる女性がいるんだ」
「え……?」
「「「えぇ〜っ⁉」」」
春香が目を丸くし、雄太達は揃って叫んだ。
雄太達の声で凱央がキョトンとしてしまっていた。
「……そんなに驚くような事か……?」
「どこの誰なんすかっ⁉」
「写真とかないんですかぁ〜っ⁉」
純也と梅野が鈴掛にグイッと迫った。雄太は固まってしまっていた。
「ちょっ‼ 落ち着けって」
「落ち着けま……あれ? もしかして、前に一緒にいた綺麗な女性っすか?」
「違う。あのな、俺が女性といたからって、誤解が過ぎるぞ?」
雄太は、春香が薄っすらと涙を浮かべているのに気がついた。
「春香?」
「ん? あ……鈴掛さんが、女性とお付き合いをする気持ちになったんだなって思ったら嬉しくて」
「……そうだな」
元嫁に金づるにされ、娘にまで好き放題に言われたのを知ってしまったから気にはしていた。鈴掛は一生独身でいるのではないかと。
「……今はまだ紹介とかは出来んが、その内、会ってもらおうとは思ってる」
「それって結婚も視野に入れてるって事ですよねぇ〜?」
「ん? まぁ、な」
照れくさそうにしている鈴掛が幸せそうで、雄太も春香も心がポカポカするような気がした。
「どんな女性なんだろうな?」
「きっと優しくて鈴掛さんを大切にしてくれる女性だよ」
「そうだな」
鈴掛は、いずれ調教師になるとは言っているが、それまで『騎手鈴掛由文』を支えてくれる女性がいればと、雄太達は思っていた。
一度上手くいかなかったからと諦めて欲しくなかったのだ。
「まぁ、今はそれだけ報告しておくだけだからな? それ以上詮索はなしだぞ?」
耳まで赤くしながら言って、鈴掛はまたビールを口にした。
「それだけっすか? 写真のお披露目とかなしっすか?」
「なしだっつったろ。それに、今日は雄太の誕生日と阪神大賞典の祝勝会だ。だから、これ以上訊くな」
純也も梅野も、まだまだ訊きたい事がありそうだったが諦めたようだ。
「鈴掛さんでも彼女が出来たのに……」
「おい、でもって何だ?」
うっかり口を滑らした純也が、鈴掛に締められたのは言うまでもない。




