646話
3月16日(月曜日)
昨日、アレックスが阪神大賞典を勝利した事から、春香は上機嫌だ。
「春香、機嫌良いな」
「だって、アルが雄太くんと優勝したんだよ? しかも、圧倒的な勝利だったし」
「まぁ、な」
春香をからかっている雄太も上機嫌なのは言うまでもない。
何気ない会話をしていても声が弾んでしまうのだ。
「来週の荷物をまとめたし、今日は楽しもうって思うんだぁ〜」
「そうだな」
二人目という事もあり、早目に里帰りを考え、週末から草津のマンションに移ろうかと思っていたのだが、週の半ば頃に里美がインフルエンザになってしまい、里帰りを遅らせる事になってしまった。
申し訳なさそうに言う里美だったが、仕方がない事だ。
「ほら、写真屋に行くぞ」
「うん。凱央、お出かけするよ」
「アイ。パッパ、アッコ〜」
雄太は凱央を抱き上げ、マタニティフォトを撮りに出かけた。
写真屋の年老いた元店主は、雄太達が来ると言うので、現店主の息子と共に出迎えてくれた。
「ご無沙汰してます。お元気そうで何よりです」
「よくいらしてくださいました。坊っちゃん、大きくなられましたね。テレビで拝見した時より、しっかりお兄ちゃんの顔になりましたな」
優しい笑顔を見せる元店主を凱央は不思議そうな顔で見詰める。
「坊っちゃんもご一緒に撮りましょうな」
「ウ?」
キョトンとしていた凱央だったが、風船や花が置かれているスタジオに入ると、ほんのりと化粧をしてチュールレースをまとう春香を見て、パチパチと拍手をした。
「マッマ、キエ〜」
「ありがとう、凱央」
春香は照れた笑顔を浮かべ、床に膝をつくと、凱央はトテトテと近づいた。
撮影する為に露わになっている春香の大きな腹に手を伸ばして撫でる。
「アタタン、イ〜コイ〜コ」
「凱央も良い子だよ」
店主がその様子をパシャパシャと撮る。
「奥様も息子さんも良い顔してますね」
「ええ」
まさに優しい世界といった感じで、雄太も笑顔になる。元店主もニコニコと見詰めていた。
前回と同様、雄太も一緒に写真を撮ってもらった。
「鷹羽さん達の写真を飾らせていただいてから、少しずつお客が増えましてね。閉店せずに続けられていますよ」
「少しでもお役に立てたなら嬉しいですよ。俺は、ここの優しい雰囲気の写真が好きなので」
雄太の膝の上に座った凱央は、スタジオにあった風船をもらいご機嫌だ。
着替えた春香を見つけると、ピョイと雄太の膝の上から降りた凱央はトテトテと春香に走り寄った。
「マッマ、ウーセン」
「風船もらったのね。ありがとうございます」
現店主は撮影に使った花をまとめて春香に手渡した。
「これ持って帰ってください」
「良いんですか?」
「ええ。今日はもうマタニティフォトとかありませんし」
「ありがとうございます」
ピンクや黄色のガーベラやかすみ草をまとめて、リボンがヒラヒラと揺れている。
「今回のもウィンドウに飾らせていただくの了承していただきありがとうございます」
「いいえ。もし、また次がありましたらよろしくお願いします」
「そう言っていただけるなら、こんなに嬉しい事はありません。ありがとうございます」
元店主も優しい笑顔を浮かべ、雄太達に頭を下げた。
笑顔で挨拶を交わし、雄太達は写真屋を後にして、自宅近くの喫茶店へと向かった。
雄太はバックミラーに映る凱央をチラリと見た。写真屋でもらった風船を嬉しそうに振り回しているから、顔がよく見えない。
「パッパ、ウーセン」
「良かったな、凱央」
「アイ」
たまに手で握ろうとしているのか、ギュムッという音を立てている。
「凱央、あんまり強く握るなよ?」
子供の薄く柔らかい爪で割れる事はないだろうと思った瞬間、車内にパンッと破裂音が響いた。
「ウ……ウェ〜ン。ウーセン」
見事に風船を割ってしまった凱央は大泣きを始めた。
「だから言ったのに……」
「ほら、凱央。こっちにもあるよ? ね?」
一番気に入っていた水色の風船の残骸を握り締めて、凱央はポロポロと泣いていた。




