642話
3月1日からフリーとして活動する事になった雄太だが、既に依頼を受けていた為に別段大きな変化はなかった。
騎乗依頼が減るかも知れないという不安をよそに、いくつもの依頼を受けていた。
「あ、居た。なぁなぁ、雄太ぁ〜」
「何だよ、ソル」
調教終わりにスタンドで休憩していた雄太に、後からやってきた純也が話しかける。
「フリーになったって、どんな感じなんだ?」
「へ? ん〜。何も変わった事はないな。調教師の所にも顔出ししてるしさ」
「あ、そんなもん?」
雄太の前のベンチに腰かけて、拍子抜けといった顔をした。
雄太自身、もっと変化があるのかと思っていたのだ。師匠と思っていた辰野の厩舎所属ではなくなった事で淋しいと思ったり、心許ない気がしたりするのではないかという不安があった。
「まだ実感が湧いてないってのが正直な感想だな。調教師は、何かあれば相談にのるって言ってくれてるしさ」
「そっかぁ〜。辰野調教師って厳しいけど優しいよな」
見た目は厳ついが、根は優しく理不尽な事が大嫌いという性格の為、慕っている人間は多い。
「俺は、師匠が辰野調教師で良かったって思ってる」
「だな」
そうやって話している内にも、騎乗依頼や打診がくる。
「はい。よろしくお願いします」
来月の騎乗依頼を受けた雄太は頭を下げて、手帳に書き込む。
「フリーになるって、何もかんも自分でするって事だよな?」
「まぁ、な。調教頼まれたりしないのか?」
「してるぞ。他厩舎とかぶったりしないようには気をつけてるけど、大抵は週末に乗る奴のが多いな」
「そうなのかぁ……」
手帳をポケットにしまって、純也のほうをマジマジと見る。
「え? 何?」
「何でもない」
雄太は少し気になったのだが、訊く事でもないのかと思って首を横に振った。
「そっか? でさ、これからも辰野調教師のトコの馬にも乗るんだろ?」
「ああ。来月も乗るぞ」
「おっちゃんのトコのもか?」
「父さんの所のは、今は調教だけだな」
「もしかして、おっちゃん今まで辰野調教師に遠慮してた?」
春香との交際を巡り、かなり辰野に説教を喰らった慎一郎は、それまで以上に辰野に頭が上がらなかった。
だが、辰野はネチネチ言う質ではなかったから、慎一郎は萎縮しているようではなかったが、純也の目から見れば、慎一郎は遠慮しているように映ったのだろう。
「てかさ……。訊いても良いか?」
「へ? 何だよ?」
雄太は言いにくそうに純也のほうを見る。
「もしかして……フリーになるの考えてるのか……?」
「ほぇ? 何でだよ?」
目が真ん丸になった純也は、何度も何度もまばたきをする。
「いや……。何か熱心に訊いてくるなって思ってさ」
「俺は、まだフリーになる自信はないって。それよか考えなきゃなんないのはG1獲るって事だって思ってるぞ」
「そうだな。やっぱりG1獲りたいって思うもんな」
「だろ?」
雄太は自分が初めてG1を獲りたいと思っていた時を思い出す。
「俺は、春香にプロポーズする為にG1獲るぞぉ〜っ‼ だったからなぁ〜」
「エッチしたいからG1獲るぞってよかはマシじゃね?」
「おい……」
純也の言葉に雄太はガックリと肩を落とす。
「へ? だってそうだろ? 何か間違ってるか?」
「そりゃそうだけどよぉ……」
「まぁ、G1獲る前にエッチしてたもんな」
初エッチがいつなのかバレているから否定が出来ない雄太は、頬がピクピクと引きつる。
周りにいる先輩達は、いつものじゃれ合いだなと苦笑いを浮かべていた。
「まぁ、一緒に走る時は俺が勝つけどな」
「ふん。俺だって、いつまでも雄太の背中を見てるだけじゃねぇって教えてやるからな?」
「お? 言うじゃないか」
雄太も純也もニヤリと笑う。
「いつか、雄太のガチのライバルって雄太にも世間にも思わせてやるからな」
「望むところだ」
「たから、コーヒーおごって」
「おまっ‼ そのだからはどこから来ただからだよっ⁉」
「うどんでも良い〜」
「お前なぁ……」
グチグチ言いながらも、純也にコーヒーとうどんをおごる雄太だった。




