641話
二月の重賞も思ったように勝てなかった雄太だったが、それでも一鞍一鞍大切に乗っていた。
その真面目さと前向きで努力を怠らない姿勢は、調教師や馬主達からの評価は高い。
「それじゃあ、お先に失礼します」
「ああ。気をつけて帰れよ」
「はい」
事務机に向かっている辰野に声をかけて外に出て立ち止まる。もうすぐ所属を離れる事になる辰野厩舎を見上げた。
(最後まで、きっちり頑張らせてもらおう)
所属でなくなっても騎乗依頼はもらえる。だが、所属の騎手を乗せる事が多くなるだろう。
フリーになっても、この馬は雄太に乗せたいと言ってもらえるようにならないと思いながら自宅へ戻った。
その日の夜、凱央が寝てから、リビングのソファーで雄太はキーケースを手にニヤニヤと笑っていた。
「雄太くん、また眺めてるの?」
「この鍵を見てると、家族が増えるんだぞって実感がわきわきになるんだって」
「ふふふ」
バレンタインデーに春香からプレゼントされたキーケース。そこに新しく買い足したワンボックスカーの鍵がキラリと光っている。
二人目が生まれたら、二つのチャイルドシートをつけなければならないという事を考えると、大型のワンボックスカーが良いと雄太は思ったのだ。
「春香、これ良いと思わないか?」
雑誌に載っているワンボックスカーを指差し話す雄太に、春香は頷いた。
「うん。お隣にお義父さんとお義母さんがいてくださるんだし、皆で乗れる大きなワンボックスカーは良いね。一緒にご飯行ったりとか出来るし」
春香が嬉しそうに言った言葉の内容は、目が点になった雄太の耳からすり抜けた。
「三列目が三人でゆったり座れるのが良いな」
「雄太くん?」
「左右にチャイルドシートで、春香が真ん中に座れたら、凱央とチビを見るの楽だした」
「雄太くぅ〜ん」
拗ねたような顔をした雄太は、春香の顔をマジマジと見る。
「……父さん達と出かける……のか……?」
「嫌なの?」
「……あんまり……出来たら……」
苦虫を噛み潰したような顔をした雄太に春香はケラケラと笑った。
「たまには良いじゃない。ね?」
「本当に……たまに……か?」
「うん」
春香の『たまに』の言葉を信じて買った新車。家族で遊びに出かけられる事を想像すると、ウキウキワクワクするのだ。
春香を色んな所へ連れて行ってやりたい。そんな思いでデートに出かけていたのが、今は春香と凱央と楽しみたい……というのに変化をしていた。
「遊園地は、いつ行けるかなぁ……?」
「暑い時期を避けるとしたら秋になってからかな?」
「G1シリーズ始まったら、余裕ないかも……」
雄太が真剣な顔をする。
「そんなに遊園地に行きたいの?」
「行きたいっ‼ 鯉の餌やりしたいんだ」
雄太が子供の頃、慎一郎が騎手として大活躍をしていて家族で遊びに出かけたりした事はなかった。
それは春香も同じなので、雄太の気持ちがよく分かった。
「うん。私も、また行きたい。凱央も喜ぶと思うよ」
「ああ。いつが良いかなぁ〜」
久し振りに子供のような顔をする雄太の隣に座り、そっとその腕に寄り添う。
「ん? どうした?」
「車買って、皆でお出かけするのが楽しみだなって思って」
「そうだな。俺、遊園地なんて子供だましだとか思ってた捻くれたガキだったからさ」
「そういう年頃ってあるんだと思うよ? 私は女だから、よく分からないけど」
少し赤くなった雄太は、右手の人差し指でポリポリと頬を掻いた。
「素直になれなかっただけの恥ずかしいガキだったなって、今なら思うんだよな」
「子供の頃って、そんな感じでしょ? 多分」
「まぁな」
新しい家族を向かえる為の準備は、着々と進んでいる。ある程度の物は、凱央のお下がりを使う予定ではあるが、新しい物も揃えるつもりだ。
「新しい車の運転も慣れなきゃ」
「今のより車体が長いもんな」
「擦ったりしたらごめんね?」
「怪我をするような事故じゃなきゃ、多少は仕方ないさ」
「うん」
そっと春香の腹を撫でる雄太の手を、ポコポコと蹴る小さな命が愛おしいと思った。




