638話
自宅に戻り、風呂や夕飯を済ませた雄太は、春香にコーヒーを淹れてもらい、ソファーで考え込んでいた。
(フリー……。春香はどう思うだろう……? やっぱり、収入が不安になるかな? 後数ヶ月で二人目が産まれるんだし、怪我や前みたいに騎乗停止になったら無収入になるんだって言うのか……? けど……)
じっと、リビングボードの上に飾られている写真を見詰める。
「雄太くん、眉間の皺がマリアナ海溝になってるよ?」
「うぉっ⁉」
春香が雄太の眉間を人差し指でグリグリとしながら、顔を覗き込んだ。
「と……凱央は?」
「もうグッスリだよ。何か悩み事? 私に話せない事?」
ふと壁の時計を見ると、一時間以上悩んでいたのに気づいた。手にしていたコーヒーカップは、すっかり冷たくなっている。
「えっと……春香に相談があるんだ」
「うん。あ、コーヒー淹れようか? 冷めちゃってるでしょ?」
「いや、良いよ」
「うん」
真剣な表情をする雄太の隣に春香はチョコンと座った。雄太は手にしていたコーヒーカップをテーブルに置いた。
「今日、辰野調教師から、フリーにならないかって言われたんだ」
「フリー……?」
雄太は、春香にも分かるように丁寧にフリーになる事と、メリットとデメリットを話した。
「そっか。うん、分かった」
「その……収入とか不安じゃないか?」
「全然」
「へ?」
雄太の顔を見た春香はニッコリと笑った。驚いたのは雄太だ。
「全く不安がなんてないって言うのは言い過ぎかも知れないかな。今まで大きな怪我をしてないからって、これからもずっと続くって言うのは誰にも分からないよね? そりゃ怪我なんてして欲しくない。けど、分からないじゃない?」
「うん……」
春香は、そっと雄太の手を握った。
「落馬するなんて考えたくないけど、騎手はそう言う危険があるって知ってて、雄太くんの妻になったのを忘れちゃった?」
「や……忘れてないけど……」
「それ以外で収入が減るって言うと、雄太くんが勝てなくなる時でしょ? それは全然心配してないよ? それに、何かあった時の為にちゃんと貯蓄してるもん。今まで、雄太くんが頑張ってくれたお金があるから大丈夫だよ?」
結婚してからの大きな出費は家を建てた時と車を買い替えた時だ。
後は、二週間北海道に滞在したとか、祝勝会などのホテルの宴会。家でも宴会はしているが、春香は惜しみなく使っている。
「それはそうだけど……」
「雄太くん、一月にどれぐらい出費があるか分かってないもんね。何なら家計簿見る? あ、通帳の残高を最近見てないから不安だったりした?」
フリーになったら春香は不安に思うだろうと考えていた雄太を、春香は圧倒していく。
「プッ」
難しい顔をしていた雄太が吹き出して、春香はキョトンとして雄太を見詰める。
「ご……ごめん。これから二人目が産まれるとか、俺の収入が減ったらとか、色々と春香に不安な思いさせるかもって思ってたのに、春香が凄く前向きっていうか、不安なさげで……つい」
「私、ちゃんと計算してるもん。もし、雄太くんが怪我をして収入がゼロになったら、月々の支払いがいくらで、固定資産税を払って、病院はこれぐらいかなって」
雄太は、中学生の春香が家出をした時に数百円で生き延びて来たのを思い出した。誰の手も借りず、菓子パンと公園の水を飲み生きていた事を。
(春香は堅実だもんな。独身の時から、ちゃんと考えて金使って貯めてたのに、今更何の心配があるんだよ)
雄太の手を握る小さな春香の手は、まるで何も憂う事はないと言っているように温かだ。
「ありがとう、春香」
「え?」
「俺のポンコツな部分をフォローしてくれて」
不思議そうな顔をしている春香を抱き締める。
『ええ。全て賭けます。私の人生……この先の人生の全てを。そして、雄太くんが……もし、騎手を続けられなくなったら、私が食べさせて行きます。不自由な思いはさせません』
初めてG1を獲った祝勝会で春香が言った言葉を思い出し、春香となら大丈夫だと思い、しばらく静かなリビングで二人の時間を過ごした。




