637話
一月の雄太の勝ち鞍は十二勝と、納得がいくものではなかった。
好き放題に書きたいマスコミは、まだ雄太が降着処分を引きずっているのではないかと書き立てた。
(はぁ……。反省もしたし、どうしたら良いかも考えた。二度と斜行しないなんて、どれだけ優秀な騎手でも断言出来ないって分かんないのかなぁ……。まぁ、口にはしないけどさ)
沈黙は金。何を言われても黙っていようと雄太は考えていた。それは、春香にも伝えた。
「雄太くんが決めたなら、私はそれを支持するよ。雄太くんが間違ってるとは思わないから」
そう言った春香は見惚れるぐらいに強い瞳をしていた。
(本当に春香って、俺より肝が据わってる時あるんだよなぁ〜)
思い出し笑いをしながら、辰野厩舎に向かった。
「おぅ、来たか」
「調教師、何かありましたか?」
辰野は早朝会った時に、調教終わりに話があると言っていたのだ。厩舎の作業よりも優先する事は殆どない。
辰野は、パイプ椅子に腰掛けていて、雄太にも座れと空いている椅子を指さした。雄太が不思議に思いながらも腰掛けると、じっと雄太の顔を見詰めている。
(俺……何かしたっけ……?)
「なぁ、雄太。そろそろフリーにならんか?」
「……え?」
「お前程の実力があるなら、フリーになってもやっていけるだろう?」
突然の事で、雄太は理解が追いつかず、ポカンとしてしまった。
「えっと……えっと……俺がフリーに……ですか……?」
「そうだ。何だ? 考えた事なかったか?」
「あ……いえ。いつかは……とは考えてましたけど。ちょっといきなりだったので……」
しどろもどろになる雄太に、辰野は優しい笑顔を向けた。
「今すぐ決めろって言ってるんじゃないぞ? 春香さんとも相談する必要もあるだろうしな」
「そう……ですね」
雄太は独身ではない。独身ではないから不安になるのは収入面だ。騎手はフリーになると、収入は調教をした時にもらえる手当てと賞金だけになる。
安定して騎乗依頼が来て、安定して勝てれば良いが、怪我や騎乗停止になれば、乗れるようになるまで収入はゼロとなるのだ。
「俺……。正直、フリーになるのは調教師が定年する時だって考えてたんです……」
「そうか。まぁ、それは考え方としてアリだがな」
辰野は慎一郎より年上だ。だから、慎一郎より早く定年退職する。
雄太は、そのタイミングでフリーにと思っていたからこそ、今目の前の辰野にフリーにと言われて、少々混乱していた。
「俺の師匠は辰野調教師だけだって思ってたので……」
「嬉しい事を言ってくれる。他にも所属騎手はいるが……雄太は儂の一番弟子だ。自慢の……な」
「調教師……」
これが親離れと言うものの感情なのだろうかと思った。これからも、辰野の栗東にいる。今生の別れではない。
だが、辰野厩舎と言う居心地のよい巣から旅立たなくてはいけない時期が来たのだと、辰野の笑顔が言っていた。
(家を出て寮に入るって決めた時より淋しいって思ってるんたけど……)
厩舎を出て、お気に入りの丘の上に登る。もう調教は終わっているから、誰もいないコースをボォーっと眺める。
(フリー……かぁ……)
いつもの雄太なら、一人でやっていけるだろうと言われたら嬉しいと思うかも知れない。
辰野の庇護の元で、ずっと居たかったのだろうかと考える。
(調教師は……、春香と付き合っている事を頭ごなしに叱らなかった……。ちゃんと話を聞いてくれて、春香を一人の人間として認めてくれた……。俺にとって、親以上に親だったのかも知れないな……)
馬に乗る時には厳しく、下馬すれば優しく接してくれた。
『乗って分からなければ駄目だ。集中しろ。馬の気持ちを背中にいるお前が感じなければ、一体感など生まれん』
『馬の呼吸に気をつけて、ここぞって時に合図を明確に出してやれ。馬は、お前が思うよりずっと賢いんだぞ』
『馬をただの馬と思うな。馬と気持ちが通じれば、お前の思うままに走ってくれる』
何度も辰野の言葉を噛み締めて、雄太は自宅へと戻った。




