63話
鈴掛は、また一口コーヒーを口にした。
そして、小さく溜め息を吐く。
「お前が春香ちゃんに気付かなかったのは、それだけ集中してたって事だ。それは良い事だ。もし、お前が春香ちゃんに気を取られてレースに集中出来なくなるなら、俺は春香ちゃんに『競馬場に来ないでくれ』と言わなきゃならない。お前の注意力が散漫になって、他の騎手の命や馬の命に関わる事は避けなきゃならないからだ。調教師や厩務員だけでなく、鞍上を任されてる俺達騎手も馬の命を握ってるんだ。お前が春香ちゃんにレースを見て欲しいと思って、この先春香ちゃんが見に来てくれる事があった時に、お前は騎手として ちゃんと集中出来るか?」
真剣な……
騎乗している時のような真っ直ぐな目で鈴掛は雄太を見た。
(そうだ……。俺が集中出来なくて、単独で落馬するだけだったらまだしも、他の馬を捲き込んだら他の騎手の命や他の馬の命に関わるんだ……。これは、騎手としての資質を問われてるんだ……。市村さんに見に来て欲しいなら、集中出来なきゃならないんだ……。俺は騎手なんだ。競馬場では騎手鷹羽雄太なんだ)
競馬は間違いなく命懸けだ。
猛スピードで走る馬に生身の人間が乗る。
一瞬の油断が命に関わる。
人だけでなく、馬の命にも関わる。
雄太はギュッと目を閉じ、固く白くなる程に拳を握る。
(俺が日本一の騎手になりたいなら、市村さんが見に来てくれても ちゃんと集中出来なきゃならない。俺は、市村さんに俺のレースを見て欲しい。俺が一着になった所を見て欲しいんだ。一緒に喜んで欲しいんだ。なら、俺はやらなきゃならない。市村さんが見ていても、競馬に……騎乗に集中するって。出来ないなら言っちゃいけないんだ。見に来て欲しいって)
握っていた拳が小さく震えた。
「なぁ、雄太。俺は前にも言ったろ? 惚れた女が出来るのは悪い事じゃない。仕事のハリになるなら良いって。気合いだってあるのは良い。惚れた女の為に勝ちたいって気合いが空回りしないならな。春香ちゃんが見に来てくれても、浮かれず集中出来るんなら良いんだ。俺はな、お前なら出来るって思ってるから言ってるんだぞ? お前はまだ十七だ。社会人になったばかりだ。騎手としてもまだ新人で、ハッキリ言ってガキだ。結婚出来る歳でもない。そんなお前に、ここまで言う必要はないとは思う。けど、いつかお前にも本気で 人生を共に歩もうと決める女が出来るだろ? その時に、俺や梅野が現役で騎手をやっていて、お前に言ってやれるとは限らない。調教師になっていたとしても、今とは立場が変わる。だから同じ騎手の今、言わせてもらった。分かったか?」
「はい。ありがとうございます」
雄太は深々と頭を下げた。
(鈴掛さんの言う事はもっともだ……。俺は、まだ甘い……。けど、その甘さは捨てなきゃならない……。甘さを強さに変えなきゃならないんだ……。それが出来なきゃ、日本一の騎手になんかなれないんだから)
『ガキ』と言いながらも、ちゃんと大人として歩む事が出来ると思っていてくれている。
そんな良い先輩がずっと共に居てくれるとは限らない。
騎手の引退は、年齢であったり、違う道に進むと決めた時に自分で決める。
悲しい事だが、落馬をして辞めざるをえなかった人も知っている。
父や他の騎手達を見て来た雄太は何度も見てきた。
鈴掛や梅野がそんな事にならないとは、誰にも言えないのだ。
「そうか。分かったんなら良い。んじゃ、難しい話はここまでだ。とりあえずコーヒー飲め。冷めても梅野の淹れたコーヒーは美味いからな」
そう言って、鈴掛は自らもコーヒーを口にした。




