624話
自宅周辺はネオンもほぼない田舎なので、雄太が帰宅した時は、周囲の家々も灯りが点いている所も少なく静かだった。
春香と凱央はもう寝ている時間だからと、そっと玄関のドアを開ける。
「ただいま……」
何となく声に出してみた。シンと静まり返った玄関が淋しく感じた。
一着を獲れていれば春香に笑顔で迎えてもらえたはずだった。勝てなかったのではなく、降着による最下位だったのだからと思うと胸が苦しくなる気がした。
(風呂入って……早く寝よう……)
重い体を引き摺るようにしながら脱衣所に向かい、溜め息を吐きながら電気を点けると、洗濯機の上に水色の何かがあるのに気がついた。近づいて見ると、それは水色の付箋で半分に折られていた。
(これって、春香が覚え書き用に使ってる奴だよな? 何で洗濯機に貼ってあるんだ?)
朝に洗濯する時にやらねばならない事でも書いてあるのかと思いながら、そっと剥がして開いてみた。
『雄太くん、おかえりなさい。お疲れ様。ゆっくり休んでね』
(春香……)
丁寧で綺麗な春香の文字を読んでいたら、鼻の奥がツンとして、しだいに文字が歪んで見えた。
自分自身の不甲斐なさと後悔とで、かなり感情がグチャグチャになっていた自覚はあったが、泣くとは思っていなかった。
新幹線が東京を離れて行くにつれ、少しずつ気持ちも落ち着いてきていたはずだった。
(……春香も期待してくれてたよな……)
大勢のファン。馬主。調教師や厩務員。たくさんの人達の期待を台無しにした。それだけでなく、最高の笑顔が見たいと思っていた春香の期待に応えられなかった。そんな思いが胸を締め付ける。
(早く内に入らなきゃって気持ちが斜行に繋がったんだ……。もしかしたら、斜行に繋がるとは思ってない油断や慢心があったのかも知れない……)
グイッと手の甲で目元を擦り、大きく息を吸い込み、風呂に入った。
一人で湯に浸かっていると、様々な事が頭の中に浮かんでは消える。引き摺っていてはいけないと思えば思うほど、底なし沼にはまってしまったようにズルズルと深みに引き摺り込まれていくようだった。
春香が成績がどうとか言う事はない。それは、出会った頃からである。騎手の妻となってからは、更に一勝の重みを知っていてくれる。
(だからって……降着なんてのは……な……)
勝てなかった時には、雄太以上に悔しがる事もある春香だが、降着での最下位という結果には、どう言う反応をするのか、雄太には想像が出来なかった。
そして、思い浮かぶのはアレックスの姿だった。アレックスは、今日まで三着以下になった事がなかったのだ。
(アル……。ごめんな……。俺がちゃんと騎乗出来なかったから、お前を最下位にしてしまったよな……)
懸命に走り、一番にゴール板を駆け抜けてくれた相棒はどうしているだろうかと思う。
馬に感情があるとは分かっているが、降着というのは理解していないだろう。それでも、アレックスの事が気になった。
風呂を終え、地下の自室に向かった雄太は、ドアに手をかけて立ち止まった。
そして振り返り、もう一度階段を上って春香の部屋の前に立った。音がしないようにそっとドアを開けた。
ルームランプの薄明かりの中、春香と凱央の寝息が聞こえる。
(俺って……情けないよな……)
足音を忍ばせてベッドに近づき、春香の寝顔を見詰めた。
妊娠が分かってから髪を短く切った春香は、年齢より更に若く見えるようになった。出会った頃と変わらないなと思ってしまい笑った雄太に、春香はプゥっと頬を膨らませていた。
「あぁ〜っ‼ 子供っぽくなったって思ったでしょ〜っ⁉」
「違うって。短い髪が久し振りで可愛いなって思ったんだよ」
「本当に? そんな感じじゃなかった気がするんだけどぉ〜」
「気の所為、気の所為」
そんな会話をした事を思い出し、雄太は小さく笑った。
そして、春香を起こしてしまわないように、そっとベッドに潜り込んだ。
(あったかい……)
春香の体を抱き締めながら、雄太は目を閉じた。




