62話
「雄太さぁ〜、昨日阪神に市村さんが居たの気付いてたぁ~?」
「…… え? えぇ~~~~~っ⁉」
梅野のセリフに、雄太は正座をしていた膝が崩れ、後ろに倒れそうなぐらいに驚いて、今まで出した事がない程の大声で叫んだ。
「やっぱり気付いてなかったみたいですよ、鈴掛さん〜。分かってたけどぉ~」
そう言うと、梅野はソファーを背もたれにして座った。
鈴掛はチラリと雄太を見て、コーヒーを一口飲んだ。
「そのようだな」
「ほ……本当に……? 本当に、市村さんが競馬場に居たんですか……? ど……どこに……? ひ……人違いじゃなくて……?」
競馬をまともに見た事もないと言っていた春香が、競馬場に居たと言う事が雄太は想像出来なかった。
「俺も、最初は聞いた時は人違いじゃないかって思ったんだけどな。けど、梅野が『絶対に見間違いでも人違いでもない』って言い張るから確認しに行ったんだよ。そしたら、春香ちゃんが居たんだよな。信じられない事に」
そう言うと、また鈴掛はゆっくりとコーヒーを飲んだ。
「その……市村さんは、どこに居たんですか……?」
「4レースのパドック〜。しかも最前列に居たぜぇ~。俺、次に出るレースまで間があったから、雄太と純也は大丈夫かなぁ~って思って見に行ったら、市村さんが居たんだよねぇ~」
梅野が思い出しながら楽しそうに言う。
(市村さんが阪神に……俺のレースを見に来てくれていたんだ……。しかも パドックを最前列で見ててくれたんだ……。市村さんが……)
嬉しくは思うが、一着になれなかった事を思い出すと雄太の胸はキリリと痛む。
(市村さんの前で勝ちたかった……。せっかく応援しに来てくれてたのに……。てか、何で市村さんに気付かなかったんだろ……?)
「仕方ないだろぉ~?お前、初騎乗だったんだしぃ~」
ガックリと肩を落としていた雄太に、梅野がサラッと言った。
「梅野さん……。人の心を読まないでください……」
雄太は考えていた事を口に出され、思わずツッコミを入れた。
「馬に乗ってない時の雄太って、面白いぐらいに読みやすいんだよなぁ~」
ゲラゲラと笑う梅野に、雄太は更に肩を落とした。
「なぁ、雄太。お前が春香ちゃんに惚れてて、春香ちゃんの前で勝ちたかったってのは分かる。けどな、お前が主席で騎手学校を卒業したからって、騎乗すりゃ勝てるってモンじゃないのは分かってるよな? 俺や梅野だけじゃなく純也だって、お前の惚れた女が見に来てるから花を持たせてやろうなんてしない。普段、どれだけ仲が良くったってな。それが、俺達がいる勝負の世界だ」
「はい」
鈴掛の言葉に、雄太はまた正座をし、背筋を伸ばして返事をした。
「その日の馬の状態、天気、気温、馬場のコンディション、騎手のモチベーション、体調。全部が完璧だったとしても、絶対に勝てる訳じゃない。勝ちたいからって勝てる訳でもない。それが出来るなら、競馬は成立しないんだ。他のスポーツでもだ。誰かが勝てば、誰かが負ける。だから、俺達は勝つ可能性を1%でも上げる為に必死になる。分かるな?」
「はい」
雄太は鈴掛の言葉を噛み締める。
「お前だけじゃない。惚れた女に格好つけたいのは誰だって同じだ。けど、春香ちゃんは格好良いだけの男に惚れるような安っぽい女か?」
雄太は目を閉じて、春香を思い出す。
(市村さんは、そんな人じゃない……。ほんの数時間分しか知らないけど、そんな人じゃない……。見た目が良いってだけで人を判断する人じゃない……。思い遣りがあって、気遣いが出来て……お金で左右されない強さのある誠実な人だ……。俺が好きになった市村さんは安っぽい俗物な人じゃない……)




