622話
10月27日に東京競馬場で開催される天皇賞秋にアレックスは出走する事になった。
仕事を終えた雄太も、天皇賞に出られる事でウキウキとしていて、夕飯を食べながら楽しそうに話しをしている。
「しっかり食べて、しっかり走って、しっかり寝てるみたいで、調子が毛艶に現れてるんだ」
「そっかぁ〜。頑張ってくれると良いね」
本当なら東京競馬場まで行って応援したいところだが、まだ安定期に入っていないのでテレビでの応援になる。
雄太自身も、現地での応援に来て欲しい気持ちはある。だが、大切な我が子を宿したからには、出来るだけ無理はさせたくないのだ。
「そう言えば、飯塚調教師からの手紙って何だったんだ?」
「あ〜。あれは手紙じゃないの」
仕事が終わり、アレックスの顔を見に馬房に寄った雄太に、飯塚が封筒を手渡してきたのだ。
春香に渡してもらいたいと言われたので、帰宅して渡したが、雄太には飯塚が春香に手紙を渡す理由が分からなかった。
「手紙じゃない?」
「うん。アルの尻尾の抜け毛が欲しいってお願いしておいたんだよね」
「尻尾の……抜け毛……? プッ」
「だって欲しかったんだもん〜」
口元を押さえて笑う雄太に、春香は照れながら言う。
「アルのファンなら欲しがる物でしょ? 雄太くんは、他の馬の調教があったりして、馬房に顔出しした頃にはアルのお手入れ終わってるかも知れないから、飯塚調教師にお願いしてたの」
「なる程な。まぁ、辰野厩舎の手伝いが終わってからしかアルのところに行けないからなぁ〜」
雄太は、まだ辰野厩舎に所属している。だから、優先すべきは辰野厩舎である為、飯塚厩舎に行く頃には、アレックスはシャワーを浴びて手入れが終わって馬房にいるのだ。
カームの尻尾の抜け毛も大切にしている春香なら、いずれアレックスの尻尾の抜け毛も欲しいと言うかも知れないと思っていた。
「また宝物が増えたな」
「うん」
騎手や調教師や厩務員にとっては大した物ではないが、春香には宝物なのだ。満面の笑みがそれを物語っている。
「マッマァ〜、オタワイ」
「はいはい」
里芋や人参の煮物を凱央の器に入れている春香の横顔を見詰める。春香はその視線に気づいた。
「どうかした?」
「ん? あ〜。前にさ、先輩から奥さんに『家で仕事の話はしないで』って言われたって愚痴を聞いたんだよ。俺、家でメチャ馬の話してるなぁ〜って思ったんだ」
「馬の話をするのって普通じゃないの?」
春香の目がクルンと大きく見開かれた。
「私は、馬の話を聞くの好きだよ。そもそも、私は知らない事を教えてもらうの大好きだし」
「そうだったな」
梅野は春香の事を『真っ白なキャンパス』と表現した。そのキャンパスに春香自身で色々な色の絵の具を一筆ずつ乗せていっているのだろう。
(幸せって感じの色合いの絵が完成するように、俺が笑顔にしてやるんだ。過去の暗さを消せるぐらいの明るい色を塗り重ねて)
釜揚げシラスの混ぜご飯をモグモグと食べている凱央を見詰める顔は、優しさと幸せに溢れている。
「んてな、アルにとって2400メートルは短いかも知れないけどな」
「天皇賞の春は3200メートルだもんね。馬でも、人でも800メートルの差って凄いと思うんだけど」
「そうだな。馬にとっては100メートルでも変わるし、ゴール板では数センチで一着二着が変わるからさ」
写真判定での微妙差での勝ち負けを知っている雄太の話はリアルで春香はウンウンと頷く。
「G1とかだけじゃなくて、どんなレースでも勝ちたいから、1センチの差で負けたらマジ悔しいんだ」
「うん」
春香は指で1センチぐらいの隙間を作ってみる。
「こんな、ほんの少しの差でも勝ち負けが決まるんだね」
「タイムは同じでも、着順はしっかり決まるんだ。本当に判断が出来なくて同着っていう結果もあるけどな」
「うん」
生き生きと競馬の話をする雄太と目をキラキラと輝かせて話を聞く春香。
他の家庭がどうであれ、楽しければ会話の内容が何だって良いのだと二人は思っていた。




