60話
「ねぇ、直樹……」
「なぁ、里美……」
直樹と里美は、自宅でお互いに声をかけた。
二人は顔を見合わせて、直樹は里美に手を差し出した。
「里美から、どうぞ」
直樹に言われて、里美は頷いて話し始めた。
「私ね……。春香が、競馬場に行きたいって言い出した時は疑問でしかなかったんだけど……。さっきの様子や話を聞いていて、もしかしてあの子 鷹羽くんに好意を持ってるんじゃないのかって思ったのよ」
「里美もそう思ったか……。俺も、そうじゃないかと思ったんだよな。今まで、仕事を休みにしてまで一人で出かけるなんてなかったし……。しかも、行きたい場所が競馬場で鷹羽くんの初めてのレースを見たい…… だからなぁ……」
直樹と里美は、お互いの思っていた事を確認して溜め息を吐いた。
「ずっとここで過ごしてたあの子は……それ以前から、生きる事に精一杯で、それ以外の感覚や精神年齢は、まだ子供だわ。時が止まっていたようなものだから……。中学生……それ以下かも知れない……。今の仕事をするようになってから、大人の真似事のように丁寧に話す事を覚えて、それが当たり前のようになってるから、大人びて見えるかも知れないけど……中身は子供のままだわ」
「そうだな。春の初恋……なんじゃないかな……。けど、まだ春自身が、その気持ちに気付いてない気がするんだよな」
目を瞑ると思い出される怯えた目をした痩せっぽちの女の子……。
世の中に絶望し、笑う事すら出来なかった頃の姿……。
初めて 直樹を『お父さん』。里美を『お母さん』と呼んだ日の事は、直樹と里美は一生忘れられないと思っている。
「あの子の生い立ちからしたら、恋をする心の余裕なんてなかったと思うのよ……。だけど、鷹羽くんと会った時間なんて、ほんの数時間だわ。鷹羽くんのどこに惹かれたのかしら……。初日は、鈴掛さんと塩崎くんが一緒だったし……。2日目に何かあったのかしら……?」
「里美。恋をするのは時間じゃないだろ? まぁ、春が一目惚れをするとは思えないけどな。あの子は警戒心の塊だから。ただ、今の春に『鷹羽くんに恋をしてるのか?』と訊いても、春自身が、異性を好きになるって事すら分かってなさそうだからなぁ……。今は、見守っていくしかないだろうな」
「そうね……」
(見守る……。そう思っていても難しい気がするわ。あの子は普通に育って来た子じゃないから、つい口を出ししてしまいそう……。私、出来るかしら……? でも、あの子の母親になると決めたんだから、なるべくなら、あの子の意思を尊重して見守って行きたい……)
(人が生きていれば傷付く事があるのは分かっている……。だけど、出来る事なら、もう春には傷付いて欲しくない……と思うのは無理なんだろうな……)
悩みが尽きない直樹と里美だった。
「雄太」
ふいに名前を呼ばれて、雄太は顔を上げた。
いつの間にか高速道路を降り、自宅へ続く坂道の下に鈴掛の車は停車していた。
「え……? あ……」
(俺、もしかしてずっと……)
阪神競馬場の調整ルームを出たのはうっすらと覚えているが、どうやって鈴掛の車に乗り、いつ高速道路に乗ったのか、道中の記憶が全くなかった。
雄太は、ゆっくりと鈴掛を見た。
「雄太。反省しないよりする方が良いけど、来週もレースはある。とりあえず帰ってしっかり体を休めろ。良いな?」
真面目な先輩騎手の顔で、鈴掛はポンと雄太の肩を叩いた。
「はい……。ありがとうございました」
雄太は荷物を持ち車を降りて、頭を下げた。
後部座席を見ると、梅野と純也が手を振っていた。
雄太が軽く手を振ると、三人は寮へと帰って行った。




