600話
鞍やゼッケンを外し、もう一度アレックスの首筋をポンポンと叩く。
「お疲れ。ありがとな」
アレックスは二度首を上げ下げした。その様子が頷いているように見えた。
「雄太くん、お疲れ」
「飯塚調教師」
カンカン場で待っていた飯塚が満面の笑みで雄太に手を差し出した。その手をギュッと握ると、飯塚の目が薄っすらと赤い事に気がついた。
「デビューが四歳になってしまったアレックスがG1を二つも勝ってくれるとはなぁ〜」
「俺も嬉しいです」
飯塚は、顔を上げてアレックスの顔を見る。
「何だ、お前。勝ったぞってドヤ顔してるのか? 可愛い奴だな」
「え? あ、本当だ。ドヤって顔してますね」
「そう見えるよな。帰ったら、ご褒美やらなきゃな」
「ですね」
後検量に向かいながら話していると、出場出来なかった先輩達が笑顔で迎えてくれた。
「おめでとうっ‼」
「鷹羽、お前G1いくつ目だ?」
「良い走りだったぞ」
「ありがとうございます」
自分は出られないのに、後輩の雄太が優勝をして悔しい先輩もいるだろう。でも、それは勝負の世界に生きていれば仕方がない。
腕を磨き、勝ち鞍を積み上げ、信頼されるしかないのだ。
「鷹羽、やったな」
「下川さん。ありがとうございます」
活躍する雄太を妬み嫌がらせをしていたのが嘘のように前向きになった下川が笑って立っていた。
「俺も、お前とG1で走りたいって思えるぐらいの良い騎乗だった」
「ありがとうございます。下川さんと走れるのを楽しみにしてます」
「ああ」
少しずつ、だが確実に周りの状況は変わっていっている。良い方向に変われた人、未だに変われない人もいる。中には悪いほうに変わった人もいるのだから、人間は悲しいと雄太は思っていた。
(ゆっくりでも良い……。変わっていかなきゃならないんだ……。立ち止まってしまえば進化はないんだから。願わくば、良いほうに向かって欲しい……)
後検量を終え、顔を洗った雄太は、晴れ晴れとした気持ちで勝利騎手インタビューを受けた。
自宅に戻り、大喜びの春香と抱き合い、凱央の小さな手で両頬をペチペチとされる祝福を受けた雄太は、家族でゆっくりと風呂に入った。
「はぁ〜。何かホッとしたなぁ〜」
「緊張してた?」
「ん〜。少しだけな。やっぱりG1は特別だしさ。アルと初めてのG1ってのもあったし」
前走はG2の阪神大賞典。今回はG1天皇賞・春。距離も延びるし、G1はメンバーも強くなる。
緊張する質ではない雄太でも、やはり気は引き締まる。
「雄太くんもアルも格好良かったよ」
「春香に、そう言ってもらえると嬉しいぞ」
「うん」
足を立てて座っている春香の太ももの上に座った凱央は、大きな金魚をニギニギとしたり、沈めたりしていた。
黒い出目金を雄太に差し出してくるから受け取る。
「ントト〜ントト〜」
「そうだな。ほら、金魚さんが泳ぐぞぉ〜」
金魚が泳いでいるかのようにするとキャッキャと声をあげて喜んだ。ふと、気づいた雄太がキョロキョロと見回す。
「あれ? 金魚掬いの網は?」
「あ〜。あれ、凱央が指を突っ込んで網を破いちゃったから修理中なの」
「ははは。ついにやっちゃったか」
「フレームは大丈夫だし、接着剤が乾いたら、また使えるよね」
金があるんだから買えば良いと言われるだろうが、修理して使えるなら使うというのが、雄太と春香の考えだ。
慎一郎と理保も同じように思っていてくれている。もちろん直樹や里美もだ。
生活面でも、育児の面でも揉めた事や苦言を呈された事もないのは恵まれていると言えるだろう。
「あ、そうだ。飯塚調教師がさ、またアルに会いにきてやってって言ってくれてたぞ」
「うわぁ、嬉しいな。また、オヤツ持っていってあげようっと」
「……またベロンベロンに舐められるんだな」
「あはは。かも知れないね〜」
会うのは、帰厩して落ち着いてからになる。飼い葉を食べる様子を見たり、脚の様子を見てからだが、アレックスは大丈夫だろうなと雄太は思っていた。




