597話
思う存分、アレックスを撫でて、凱央は嬉しそうに笑っていた。
「凱央ちゃんは、本当に馬慣れしてるな。怖がりもしないし、扱いが優しい。将来、騎手にならなかったら、厩務員になって欲しいぐらいだな」
「ふふふ。雄太くんを知っていてくださっている方々から『将来は騎手』とおっしゃってもらってますけど、厩務員は初めてかも知れません」
言葉が難しいからか、凱央はキョトンとした顔で春香と飯塚を見ていた。
「凱央ちゃんが馬を怖がらずにいてくれて、優しい心が馬にも通じてるんだな。もし、凱央ちゃんが騎手になった時に、儂が定年で調教師をしていないのが残念だ」
「あ……。そうですね。調教師は定年がありますもんね。今、よくしてくださってる方々も、『それが残念だ』っておっしゃってくださってます。ありがたいですね」
雄太を可愛がり、騎手として大切に思ってくれている調教師達。凱央が騎手としてデビューする頃には、定年を迎えトレセンを去っている人が多いのが事実である。
「慎一郎調教師は、孫がデビューする時に良い馬を用意するって張り切ってたからなぁ〜」
「もし、そうなったら、またマスコミが大騒ぎしそうですね」
「そうだな。雄太くんの時と比較にならないかも知れんぞ?」
もし、凱央が騎手デビューするとなったら、慎一郎はギリギリ現役調教師だ。そうなったら、一番大騒ぎし、大張り切りするのが目に浮かぶ。
「まぁ、雄太くんも春香さんも凱央ちゃんを騎手にしたいと思っている訳じゃないのだろう?」
「ええ。この子にはこの子の人生がありますから。その考え方は、凱央がお腹に宿った時から変わってません」
「そうだな。それが良い。命がけの仕事だし、家業と言う訳でもない。ただ、期待してしまう人もいるのは……な?」
雄太に期待を寄せる人々と大揉めした時の事を飯塚は言っているのだろう。
「はい。重々承知しています」
春香はニッコリと飯塚に笑って見せた。
「馬が好きなサラリーマンでも、乗馬が趣味の農家でも全然構わないんです。どんな人生を選ぶとしても、私達の子供である事には変わりがないので」
「ああ。好きな事を仕事に出来る人は少ないだろうが、やりがいのある仕事を楽しそうにしてもらえたらと思うよ」
「はい」
アレックスが凱央に顔を近づけた時、凱央の指がアレックスの鼻の穴に入った。
「フンッ」
アレックスにクシャミのような鼻息をかけられ、凱央の目が真ん丸になる。それでも、アレックスは嫌がる事なく、凱央に撫でられていてくれた。
「春香、凱央。お待たせ〜」
「雄太くん」
「パッパァ〜。アッコォ〜」
ようやく取材が終わった雄太はダッシュで飯塚厩舎に走ってきた。飯塚にペコリと頭を下げると、アレックスを見上げた。そして、抱っこをせがむ凱央を抱っこする。
「アル、凱央と遊んでくれてありがとうな」
アレックスはブンブンと首を上下に振った。
「あ、アルにオヤツあげるの忘れてた」
春香の言葉にアレックスの耳がピンッと立つ。
「今日はね、イチゴ持ってきたんだよ。他の子達にもあげられるように、たくさん買ってきたんだぁ〜」
「は……春香さん……。いったいどれだけ……」
ベビーカーに下げていた袋から大きなタッパーを取り出した春香に、飯塚が驚き訊ねた。
「いつも、アルだけだったので他の子にもって思ったんです。あげちゃ駄目な子っています?」
「否。あ、一番端の奴はイチゴを食った事がないから分からんな」
「じゃあ、食べなさそうだったらやめておきますね」
春香はタッパーの蓋を開けて、順番に食べさせていった。その様子が楽しそうに見えたのか凱央もテンションが上がっていた。
「こんにちは。イチゴいかがですか?」
一頭一頭に挨拶をしてイチゴを食べさせている春香のセリフがツボった若い厩務員が口元を押さえながら背中を向けて肩を震わせていた。
(ほう。普段、あんまり表情を変えない奴をあんな風に笑わせるとは……)
雄太一家がくると雰囲気が良くなる事を改めて感じた飯塚は、雄太とアレックスのコンビは長く続いて欲しいと思った。




