596話
4月16日(火曜日)
「アル」
「アウ〜」
飯塚に許可をもらっていた春香と凱央はアレックスの馬房を訪れていた。声をかけられたアレックスは、キリッとした顔を春香達のほうへ向け、首を上下に振った。
「元気そうだね〜」
ベビーカーを少し離れた所に置いて、アレックスの鼻面に手を伸ばした春香にアレックスは甘えたようにすり寄った。
「ああ、春香さん。いらっしゃい」
「飯塚調教師、お邪魔してます。もう、取材は終られたんですか?」
「儂は、な。雄太くんは、まだ記者に囲まれとったよ」
28日に開催される天皇賞春に向けて、大注目のアレックス。そして、雄太。
『ゾルテアレックス、鞍上鷹羽雄太で天皇賞春へ』と、連日取材が続いていた。
「アルの取材も……ですか?」
「否、アレックスの取材は少なくしてるよ」
「良かった。安心しました」
馬によって、知らない人間が大勢押しかけたり、写真を撮られる事がストレスになるのだ。
「馬……特に競走馬は胃潰瘍になりやすいんですよね? おおらかなアルもストレスを抱えているんじゃないかって思ってたんです」
「……それをどこで……?」
アレックスの鼻筋を優しい顔で撫でながら話す春香に、飯塚は目を大きく見開きながら訊ねた。
「……私、少しでも雄太くんの為にならないかと思って色々調べてて……。その……ハーティの事があったから、余計にアルが気になっちゃったんです……」
「そうか……。ハーティグロウ……、良い馬だったんだがな」
飯塚は渋い顔をした。ハーティの事は飯塚もかなり気にしていた。ハーティのいた厩舎の藤波とも懇意にしていたので、状況はよく聞いていたのだ。
ハーティは注目されたが故にストレスを抱えてしまっていたと聞いた。言葉を話せない馬だから、『今、どんな気持ちでどんな状況だ』と言えない。それを察してやれる人間がどれだけいるだろうか。
調教師であっても、獣医であっても、騎手であっても難しい。そして、人間のように表に出さない馬もいる。だからこそ、春香はアレックスが気になって仕方なかったのだ。
「今更だが、ハーティは雄太くんと手が合ってたと思うんだ。後、気持ちもちゃんと繋がってたと思う。きっと、春香さんの気持ちも分かってくれてると儂は思うぞ?」
「ありがとうございます」
話しながら撫でていた春香の手が止まるとアレックスは鼻を鳴らして催促をする。
「あ〜。ごめんね、アル」
「催促するとか、お前どれだけ春香さんに甘えるつもりだ? 雄太くんがいない間がチャンス、ラッキーって思ってるんじゃないだろうな?」
飯塚に言われて、アレックスは当たり前だと言わんばかりに首を寄せてくる。
「あ、春香さんに訊きたい事があったんだが……良いかな?」
「はい? 何でしょうか。私に分かる事なら」
「前に静川調教師の所にいたカームマリンを見て、強さを感じたって言ってたそうだが……」
「あぁ〜。本当に何となくなんです。カームもアルと同じように甘えてくれて、その時に何て言うか『頑張るよ』『早く走りたいな』って思ってる気がしたんです」
ニコニコと笑う春香は、どこからどう見ても普通の若い女性で、『馬と会話出来るのでは?』とヒッソリと噂がたっているが信じられない。
「アルからも感じるんです」
「え?」
「アルのヤル気とか、走るのが楽しいとか、そう言う感じが」
飯塚は、春香の顔に自分の顔を寄せてスリスリとしているアレックスを見上げた。
「ん〜。儂には、撫でろ〜とか、オヤツくれ〜にしか見えんのだが……」
「せ……調教師」
思わず吹き出してしまった春香の服の裾を凱央が引っ張る。
「マッマァ〜」
「あ、凱央もアルに触りたいのね」
ベビーカーのベルトを外して、凱央を抱き上げる。
「はい。アルにご挨拶してね」
「ン。アウ〜」
ペコリと頭を下げた凱央を見て、なぜかアレックスも頭を下げた。
「おい、アレックス。お前、挨拶するんだな」
飯塚は、目を丸くして大笑いした。作業中の厩務員達も薄っすらと涙を浮べながら笑っていた。




