595話
四月に入り、雄太は桜花賞、皐月賞と出場したが、優勝する事が出来なかった。
悔しさを滲ませながら、何度もレースを見返している雄太を見て、春香は心の中で一生懸命励ましていた。
(あんまり頑張れって言っちゃうとプレッシャーになるもんね)
コレクションルームのドアをソっと音を立てないように閉めた。
「ん〜」
小さく唸って、コーヒーカップを取ろうとした雄太の手が止まり、視線をサイドテーブルに移した。そこにあったのは、緑茶と桜餅とおしぼり。
「え? あれ? いつの間に……」
キョロキョロ見回しても、春香の姿はなかった。
(俺、春香がきてくれてるの気がつかない事多くなったなぁ……)
緑茶に手を伸ばし、一口飲んでホッと息を吐いた。まだ緑茶は温かく、おしぼりで手を拭いて、桜餅を口にする。
(あぁ〜。頭を使い過ぎてたからか、桜餅の甘さが染み渡るなぁ……)
春香の好きな店の桜餅は餡が白餡で、雄太も気に入っていた。自宅からはかなり遠い小さな個人の和菓子屋だ。
(ここの和菓子、マジで美味いんだよな……。季節毎に色々あるし)
夏越しの祓えで買ってきてくれた水無月。カラフルな餅米の乗ったいが饅頭。しっかりとヨモギの香りがする草餅。季節の花を模った上生菓子。
どれも気に入っているのだが、白餡の桜餅は食べた事がなかったので、最初は驚いた。そして、雄太以上に気に入ったのは理保である。
昨年の春、電話に出た雄太に理保が真剣な声で訊ねた。
『ねぇ、雄太。今度、ご近所の方々とお茶をするんだけど、あの桜餅ってどこで買ったの?』
「へ? 桜餅……?」
『そう。この前、春香さんが持ってきてくれた桜餅よ。あれ、美味しかったのよね』
雄太は、春香がオカズなどをお裾分けしているのは聞いていたが、和菓子を持っていっている事は知らなかったのだ。
目が点になった雄太は、春香に電話を代わり、楽しそうに話す様子をジッと見ていたのだった。
(あれからもう一年かぁ〜。去年の天皇賞はカームと一着獲れた。今年はアルと勝ちたいな)
桜餅を食べきり、緑茶を飲んで、春香のさり気ない優しさを嬉しく思った。
地下のコレクションルームからリビングへ向かっていると、ドアの向こうから小さく叫び声が聞こえた。
「何かあったのかっ⁉」
思いっきりドアを開け駆け込むと、顔面が白餡だらけの凱央が雄太を見ていた。ほっぺたには、桜の葉っぱがくっついている。
「パッパァ〜」
「雄太くん……。凱央がぁ……」
半ベソをかきながら雄太を見詰める春香と白餡まみれでご機嫌の凱央の対比がおかしくて、腹を抱えて笑い出してしまいそうになりながらドアを閉めた。
「あ〜ぁ。凱央、何やってんだよ」
テーブルの上には、食べかけの桜餅や握り潰された桜餅が転がっていた。
「残った桜餅をお皿に移してラップをしようって思ってたの……。凱央の手が届かない所に置いたつもりだったんだけど……」
春香は布巾で凱央の顔を拭き、キッチンで布巾を洗った。雄太は、白餡まみれの手で顔を触らないように凱央の腕を押さえていた。
「凱央、食べ物を握ったり、顔に塗ったりしたら駄目だぞ?」
「ウ?」
キョトンとする凱央の手を綺麗に拭いながら、春香が溜め息を吐く。そして、桜餅を指差した。
「凱央、これはメッよ? 桜餅さんにごめんなさいして」
「……ウ」
もしかしたら大きなまま食べたかったのかも知れない。握った時の感触が粘土のように思えたのかも知れない。でも、食べ物を粗末にしてはいけないと教えなければならないと思った。
凱央は、春香が叱っているのが分かったのだろう。テーブルに散らばった桜餅に頭を下げた。
春香が叱っている間に布巾を洗ってきた雄太が、もう一度顔と手を拭いてやる。
「凱央の手が届く範囲が広がったんだな」
「……うん。ちょっと油断してたよ」
見るも無残になった桜餅を片付けている春香が落ち込んでいるのが分かった。
だが、叱った後はちゃんとフォローしている姿に母親として立派だなと思った雄太だった。




