59話
「春は東雲の従業員だ。今回は、たまたま予約が入ってなくて、急患もなかったから良かったけど、毎週こんな好都合が続くと思うかい?」
直樹がゆっくりと諭すように言う。
「ごめんなさい……。無理です……。私は……鷹羽さんが勝つ所 見られないんですね……」
じんわり涙が浮かんで来るのを、春香は必死で我慢するが、なぜこんなにも悲しいのか理解出来ないでいた。
里美が腰を上げ、ベッドで正座している春香の隣に座り、春香の手に自分の手をそっと重ねた。
「ねぇ、春香。あなたが鷹羽くんの走る姿を見たいのは分かったわ。でも、あなたは社会人よね。なら、社会人として どうしなければならないのかよく考えなさい。良いわね?」
「ごめんなさい……」
春香は涙声で謝った。
「分かれば良いの。次の鷹羽くんのレースは聞いてないのね? だったら訊いてみなさい。それで、都合が合えば行っても良いわ。予約不可にしないで、予約が入ってなければって事よ? でも、北海道や九州は駄目よ? なぜ駄目なのかは、春香が一番分かってるわね?」
(私が、この仕事をすると決めたんだから……。直樹先生と里美先生が無理だから駄目って言ったのに、私が決めたんだから……)
ただ『生きる』と言う事だけに必死だったあの頃……。
世の中は理不尽で自分に優しくない物だと絶望し、諦めたあの頃……。
そんな自分を、直樹と里美は優しく抱き締め、支え、守り、慈しんでくれた。
『春香は春香で良いんだよ。他の誰にもなれないんだから』と、何度も言われたが完璧に納得は出来なかった。
自分らしく生きる事に不安や迷いがあった。
『自分』すら見失っていたから……。
だからか人にお願いする事や頼る事が出来ずにいた。
『人に甘える』と言う事が分からなかった。
甘えさせてもらう事がなかったから……。
ようやく数年掛かったが、甘える事や我が儘を言う事を覚えた。
だが、今の自分の我が儘は間違えていると春香は思った。
(駄目……。この我が儘は間違っている。こんな我が儘は通らない。直樹先生と里美先生は、間違った道を選ばないように教えてくれているのだから、泣いちゃ駄目。泣けば済むって思うのは間違ってる。しっかりしなきゃ。私はもう二十歳で、社会人なんだから)
道を違えないように諭してくれている直樹と里美を見る。
「ごめんなさい。もう 大丈夫です。私が間違ってました。ちゃんと仕事します」
しっかり前を見て言う春香に、直樹と里美はホッと息を吐いた。
「そう言えば、ちゃんと馬券は買えたのか?」
直樹は思い出したように訊ねた。
「そう言えば馬券の買い方を訊いてたわね? 買ってあげたのよね?」
里美も、いつもの優しい顔で訊いた。
「はい。ちゃんと買えました」
春香は、ベッドの脇に置いていたお気に入りの小さなリュックを手に取った。
「直樹先生が、馬券って言うのは 買うのに締め切りがあるって教えてくれたから、競馬場に着いたら直ぐに馬券売場に行って買ったんです。鷹羽さんのデビュー戦の馬券が買えなかったら困るって思って」
リュックから財布を取り出し、馬券を取り出した。
「ハズレた馬券を捨ててる人がいっぱい居たんだけど、鷹羽さんの初めてのレースのだし、どうしても捨てられなくて……。持って帰って来ちゃいました。記念として 大切に取っておきます」
ニッコリ笑って、直樹と里美に ハズレ馬券を見せた。
「そうね。一生に一度のデビュー戦なんだし、記念に……って、春香っ‼」
「お前っ‼ 4レースの単勝をそんなに買ったのかっ⁉」
その後、二時間も説教をされた春香だった。




