590話
水曜日、春香は凱央をベビーカーに乗せトレセンに向かっていた。
「凱央、アルに会えるよ」
「アウ〜」
「そう。また、アルを撫で撫でさせてもらおうね」
「ン」
トレセンに向かう坂道を登っていると、顔見知りの人達が声をかけてくれる。久し振りに会う人達は成長した凱央に驚きながらも笑顔を向けてくれる。遠くから手を振ってくれる人に凱央も手を振り返す。
厩舎が立ち並ぶエリアに入ると馬の鳴き声に凱央の目がキラキラと輝き出す。ベビーカーが動くぐらいに体を揺さぶる。
「ウ〜ウ〜」
「うん。お馬さん鳴いてるね」
笑いながら飯塚厩舎に向かって歩いていると、前から雄太が走ってくる。
「パッパァ〜。パッパァ〜」
「春香ぁ〜。凱央ぉ〜」
「雄太くん、お疲れ様」
「ああ」
並んで歩き出しながら、雄太は凱央をチラリと見る。雄太のほうを見ていたはずだったのに、視線はもう厩舎……と言うか馬房のほうへ向いていた。
「ん〜。俺、馬に負けてるな」
「ね〜。家だとパパが一番なのにね」
「父親として、ちょっとなぁ〜」
「ふふふ」
飯塚厩舎に着き、挨拶をしてから馬房に向かう。
大きく開いている扉からアレックスの顔が見えた。やはり、レースの時より柔らかな表情をしているなと春香は思った。
「アル」
雄太が声をかけるとピンッと耳が真っ直ぐに立ち、ピコピコと動く。
「ねぇ。馬って自分の名前を理解してないって言われてるけど、雄太くんの乗ってきた馬って、名前理解してない?」
「どうなんだろうな? 俺の声を覚えてる……とか?」
「あ〜。そう言うのありそう」
ゆっくり話しながら近づくとユラユラと尻尾が揺れていて、カームの時程ではないが前掻きをしている。
「アル。この前は格好良かったよ。でね、調教師からご褒美をあげても良いって許可もらったんだぁ〜」
春香が話しかけると、ピョコピョコと耳が反応をしている。
「……カームと一緒で、中に人が入ってんじゃないだろうな?」
「え?」
「ご褒美って言った時の耳の動きが怪しい……」
春香が目を丸くして雄太を見詰めた。そして、アレックスのほうに向き直りジッと見る。
「ご褒美」
ピョコ。
「ご褒美」
ピョコピョコ。
「……雄太くん、アルの背中にファスナーついてなかった……?」
「俺、レースの事に集中してたから定かじゃないけど、ついてたかも知れない……」
そのやり取りを作業をしながら聞いていた厩務員達は『若いとは言えG1騎手の発言とは思えない』と必死で笑いを堪えている。
「アウ〜、アウ〜」
ベビーカーから降ろしてくれと、凱央が両手を伸ばして催促をすると、雄太はベルトを外して凱央を抱き上げた。
「アルがオヤツもらうの見ような」
「ン」
春香がベビーカーのハンドルに下げていた袋の中からタッパーを取り出した。それを見ていたアレックスの尻尾と首がブンブンと激しく揺れる。
「やっぱり、誰か入ってるだろ……」
「タッパーを見てオヤツって分かるのすごいね〜。アル、はい」
アレックスは差し出されたリンゴをシャクシャクと食べる。滝のようなヨダレが美味しいと言っているようだった。
食べきったアレックスは、もっとくれと言うかのように前掻きをする。
「次は人参ね?」
細長く切った人参をボリボリと齧るアレックスを凱央は嬉しそうに見ていた。
「アウ〜。アウ〜」
小さな手をフリフリする凱央を抱いた雄太は、ゆっくりとアレックスに近づく。春香は、人参を凱央に手渡した。厩務員達はドキリとするが、雄太は凱央の手を持って、アレックスの口元へと導いた。アレックスが凱央の手を噛んでしまわないように注意しながらだ。
「アル。本当にお疲れ様。次も頑張ってね? 次も雄太くんだったら良いな」
(春香……)
乗り替わりは当たり前の事だ。新馬から乗っていても、途中で乗り代わったりする事があるのだ。
それを春香はハーティの時に身にしみた。騎手の要望は通らないのが当たり前だ。
それでも、また雄太の騎乗でアレックスが走ってくれたら良いなと思った。




