587話
全レース終了後、調整ルームで荷物を片付けた雄太は、自宅へ向かうべく意気揚々と歩いていた。
(春香も喜んでくれるよなぁ〜)
建物を出てしばらくすると雄太はフリーズし、そして近場の物陰に身を潜めた。
(クッサぁ〜っ‼ どんだけ匂いさせてんだよっ⁉)
「雄太? ウゲッ‼」
ウンザリとした顔で座り込んでいると後から来た鈴掛が声をかけたが、悪臭に顔を歪めて立ち止まった。
「す……鈴掛さぁん……」
涙目で縋るような雄太と同じように物陰に身を潜めた鈴掛は、コッソリと覗いた。
若い女の子達が複数人、こちらをチラチラ見ながら立っていた。手にはカメラや色紙、紙袋を持っている。
「あれ……お前のファンか……」
「違ったら良いんですけど……確かめに近寄るのも嫌で……」
「梅野は、今日は食事の約束があるからって、俺達より早く出たよな……。他に出待ちされそうな奴っていたか……?」
雄太と鈴掛が人目につかない場所でコソコソと話していて、気づかない他の騎手が出て行っても複数人いる女性達は見向きもしていなかった。
(やっぱ……雄太のファンか……)
女性タレントに香水の匂いを付けられて、春香に嫌な思いをさせてしまった雄太は、あの女性達に近づきたくないのだろう。しかも、頭痛や吐き気で体調を悪くしてしまったのだから致し方ない。
風向きが変わり、また雄太達のいるほうに匂いが漂ってくると、鈴掛は眉をひそめた。
「……一種類でもクセェのに、複数の匂いが混じるとヤバいな……。雄太? 大丈夫か?」
俯いている雄太の顔を覗き込んだ鈴掛は、顔色が悪くなっている気がして背中を擦った。
「す……すみません……。吐き気と頭痛が……」
「かまわん」
背中を擦っていた鈴掛は、ふと思い出してバッグからタオルを取り出し手渡した。
「これで鼻を塞いでいろ。何もないよりマシだと思うぞ」
「……ありがとう……ございます……」
厚目のスポーツタオルを鼻から口にあてていると、少しはマシになった。しかし、女の子達はまだキョロキョロと見回していて、立ち去ろうとしていない。
(こりゃ……時間かかりそうだな……。いつまでも、ここで座ってる訳にもいかねぇしなぁ……)
もう一度、女の子達のほうを見て、雄太が隠れている事には気づいていない事を確認した。
「雄太、ちょっと待ってろ」
「鈴掛さん……?」
「何とか追っ払えないかやってみる。もし、失敗したらすまん」
タオルのおかげで多少顔色が良くなった雄太は頷いた。
鈴掛も正直、悪臭には近寄りたくはないが、先輩として雄太を放置してはおけないと立ち上がりゆっくりと歩き出した。
(近寄ったら……口呼吸で……)
「君達、出待ち? 誰待ってるんだい?」
人の良さそうな笑顔を浮かべて、女の子達に話しかけた。
「え? あ、鷹羽くんです」
「鷹羽さん、まだですか?」
女の子達は口々に訊ねた。本当に見た目は可愛い女の子なのだが、どうしても香水の匂いが嫌悪感を生んでしまっている。
「雄太か? 雄太なら体調が悪くなったとかで、車を置いてタクシーで新幹線の駅に向かったけど?」
「え? そうなんですか?」
「知らなかったぁ……」
女の子達は残念そうに言って小さく溜め息を吐いた。
(……信じてくれたか……?)
「えっと……鈴掛さんですよね? 鷹羽さんと仲が良い」
「そうだよ。俺が連れて帰ってやっても良かったんだけど、俺この後に予定があってね」
「そうなんですね。じゃあ、鷹羽さんにお大事にって伝えてください」
「お願いします」
「分かった。気をつけて帰るんだよ」
女の子達は鈴掛に会釈をして、三々五々歩き出した。
(礼儀正しいのになぁ……。香水だけが残念だ)
女の子達がいなくなるまで立ち尽くしていた鈴掛は、雄太のいる所まで戻った。
「一応、帰ったみたいだけど、もう少し様子見するぞ」
「……はい」
膝を抱えた雄太の脳裏に春香の笑顔が浮かんだ。
(もう、嫌だ……。春香ぁ……)
せっかくの勝利が女の子達の香水の匂いで吹き飛んでしまった雄太だった。




