584話
木曜日の午後、春香は凱央を連れてトレセンを訪れていた。
「こんにちは、飯塚調教師」
「おぉ、春香さん。よく来たねぇ〜」
「その後、おかげんは如何ですか?」
数ヶ月前、飯塚は腰を痛めて春香の施術を受けていたのだ。その時には、まだ雄太はゾルテアレックスの騎乗依頼をもらっておらず、飯塚は辰野の紹介を受けただけだった。
「ああ、あれから調子良くてな」
「調教師はお忙しいとは分かっていますが、疲れを蓄積なさらないでくださいね」
春香の施術を受けてから、飯塚は少なくとも月に一回は東雲に行っているそうで、春香は安心していた。
「忙しいを言い訳にしちゃいかんと里美先生にも叱られたよ」
「そうですよ? 体は大切にしていただかないと」
飯塚と並んで馬房へと向かう。ベビーカーに乗った凱央は、目をキラキラさせて身を乗り出していた。
「おやおや。さすが雄太くんの子だな。目が輝いてるぞ?」
「どの馬も触れると思い込まなきゃ良いんですけど……」
「そうだな。こんなチビッコの腕なんて持ってかれかねんからな」
馬によっては、人に触れさせるのを嫌がる事を教えなくてはいけない。そうは思っていても、凱央は12月に一歳を過ぎたばかりだ。理解出来るかどうかも怪しい。
「凱央ぉ〜」
「パッパァ〜」
辰野厩舎の手伝いを終えた雄太が走って来た。雄太の姿を見つけた凱央がベビーカーを大揺らししながら両手をフリフリとする。
「おぉ〜おぉ〜。凱央ちゃんは元気だな。余程、パパが好きとみえる」
「ええ。本当、パパっ子でべったりです」
抱き上げられた凱央は雄太に馬房のほうへと急かす。
「パッパァ〜、パッパァ〜」
「分かった、分かった。大人しくするんだぞ?」
「ン」
雄太は飯塚に会釈すると馬房のアレックスのほうへ向かった。その後を春香も続く。
「アル」
ゾルテアレックスは雄太の声に反応して、耳をピョコっと動かした。
「こんにちは、ゾルテアレックス。私もアルって呼んで良いかな?」
春香もそっと近づいて声をかけた。綺麗な目が春香をジッと見る。
「うん。梅野さん達がイケメンって言うの分かるね」
「春香ぁ……?」
「ん? 雄太くん的にはイケメンじゃない?」
「そうじゃないけどぉ……」
春香はチョコンと首を傾げる。春香には、雄太が馬にヤキモチを焼く気持ちは理解出来ないのだから仕方ない。
「変な雄太くん」
春香は小さく笑うとアレックスのほうへ向き直った。
「アル。触っても良いかな?」
アレックスは、スッと首を下げた。触っても良いという合図だろう。
春香がそっと手を伸ばしてアレックスの鼻面に触れる。撫で撫でとしていると、アレックスは更に首を下げてくる。春香は首筋も撫でていく。
「気持ち良い?」
(ウゥ……。耐えろ、俺……。馬相手に妬くんじゃない……)
春香に大人しく撫でられながら、アレックスはフンフンと鼻を鳴らしていた。
「アル。凱央も触っても良い?」
アレックスは大人しく春香を見詰め返している。雄太が凱央を近づけながら話す。
「凱央、優しく優しく撫で撫でだぞ?」
「ン」
凱央が小さな手を伸ばしてアレックスの鼻に触れる。くすぐったかったのかアレックスがフンと鼻息を吐いた。鼻息をかけられたのが面白かったのか凱央がキャッキャと笑う。
そして、また鼻先を撫でる凱央の手にアレックスは鼻を寄せていた。
(静川調教師や慎一郎調教師が、言ってたのはコレなんだな……)
雄太と付き合うまで馬に触れ合った事もなかった春香。赤ん坊なのに馬との距離の測り方が分かっているかのような凱央。
雄太を含めた三人の穏やかな空気感が飯塚厩舎を包んでいる気がした。
「ありがとう、アル」
春香が礼を言うと、アレックスがベロベロと春香を舐め始めた。
「あぁ〜っ‼」
「ちょっと……アルってばぁ……。プハァ」
理由は分からないが春香は馬に舐められると聞いていた飯塚は我慢出来ずに大笑いを始めた。
(こ……これは笑える)
厩務員達もつられて笑っていた。




