581話
2月24日に中京競馬場で開催されたG2の読売マイラーズカップで優勝した雄太は、自宅に戻り春香にサインを書いた。
満面の笑みで喜んでいる春香に癒され、それまであった嫌な気持ちやストレスがゆっくりと溶けていく気がしていた。
(ああ……。俺が見たい笑顔だ。俺の勝利と無事を喜んでくれる春香が大好きだ)
いつまでも、クヨクヨと悩んでいるのは仕事に影響があるとは思っていても、やはり脳裏に過ぎる数々の悩み事。だからこそ、春香の存在が大切であり、最大の癒しだ。
(ありがとう、春香。春香がいてくれるから、今の俺があるんだ)
しっかりとマッサージをしてもらい寝落ちした雄太の隣にもぐり込んだ春香は幸せな気持ちでいっぱいだった。
例のテレビ局での香水女の件を雄太は、純也に愚痴っていた。その話を遅めの朝食を取りながら、鈴掛達と話していた。
「雄太の遭遇した香水女と、最近よく出没する香水女ってよく似た話だよな」
「そうっすよね。俺も先週、出待ちされててまいったっすよ」
純也は、大盛りの丼飯の上に生姜焼きを乗せて大口で食べながら愚痴っていた。
「俺、防毒マスクみたいなのが欲しいって思ったんだよなぁ……」
「さすがの梅野も、アレには辟易してるんだな」
鈴掛に言われ、梅野がウンザリといった顔をする。
「そりゃしますよぉ〜。あの匂いの所為で何枚クリーニングに出さなきゃいけなくなったと思ってるんですかぁ〜」
「俺もっす。何とかなんないっすかね」
いくら迷惑だとは言え、ファンに対して『香水禁止』とは言えないのだ。
「クリーニングで済めば良いけど、春香ちゃんにしてみりゃ、収録があるからって出かけた旦那が香水の匂いさせて帰ってきたら……」
「浮気してたって思ったでしょうねぇ……」
雄太の性格からして浮気はないとは思っているが、香水の匂いをさせて帰ってきたら疑ってしまうだろうと思った。
「俺達は『クッセェ』で済むけど、春さんは気にするっすよ。雄太の事を好きであればある程、傷は深くなる気がするっす」
「疑いたくないからこそ……だよな」
純也の言葉に鈴掛が苦虫を噛み潰したような顔をする。
「まだ例の件も進展ないのになぁ……」
盗聴器を送ってきた犯人は、その後何も動きがなく、雄太はファンからのプレゼントは一切受け取らない状態が続いている。
無駄に騒ぎを大きくすれば、犯人が捕まらない可能性もあると言う事で、純也達は盗聴器事件の事は他言無用のままだ。
競馬場や厩舎などに届けられたプレゼントは全て検閲をする事になったという通達はあった。
(今まで食べ物や飲み物は除いてもらえてたけど、それ以上にきっちりやってもらわないと……な。追いかけまわされてプライベートを明かされるのも大変だろうけど、盗聴なんてあり得ないぞ)
盗聴犯の目的は分からないが、雄太達に相当なストレスを与えてしまったのは事実である。
「そう言えば、鈴掛さん」
「ん? 何だ?」
大盛りの朝食を食べきった純也が、ふと思い出したように鈴掛に声をかけた。
「この前、綺麗な女性と話してたっすね?」
「え?」
驚いた鈴掛に、梅野が訊ねる。
「えぇ〜? 誰なんですかぁ〜?」
「……記者か……? カメラマン……?」
明らかに動揺している鈴掛に梅野の追撃が始まる。
「何で疑問形なんですかぁ〜?」
「……誰の話か分からんからだ」
「ふぅ〜ん。で、純也。その綺麗な女性って、どんな感じだったぁ〜?」
鈴掛に訊いても口を割らなそうだと思った梅野は純也に質問をしてみた。
「え? あ〜。綺麗な黒髪で、美人って言うより、可愛い感じが……」
思い出しながら答える純也に鈴掛はニヤッと笑った。
「純也、肉」
「へ?」
「可愛い後輩には焼き肉のご褒美があるぞ」
「マジッすかっ⁉」
「ああ。だから余計な事は言わないようにな?」
「うっすっ‼」
焼き肉で買収された純也はホクホク顔で両手を握り締めていた。
鈴掛はホッとしながら、ニヤニヤ笑う梅野からの追及がある前に自室に戻った。




