57話
「あ……本当だ……。ここで待ってます」
「おう。んじゃ、待ってな。なるべく早く戻って来るから、動くんじゃねぇぞ?」
男性は馬券売場に向かって行き、春香は振り向いて掲示板を見た。
赤い『確定』と言う文字が、雄太の初騎乗が終わったのだと知らせていた。
(鷹羽さん……。次、頑張ってください……)
春香の懸命な応援も叶わず6レースは五着。
8レースは八着だった。
(私が落ち込んじゃ駄目。鷹羽さんが一番悔しい思いをしてるんだから。それに、12レースは一着になれるって信じたい)
「嬢ちゃん、12レースまではどうやって時間潰すんだ? 馬券買ってたろ?」
男性は、春香が12レースの馬券を買っていた事を覚えていたようだ。
「あ、はい。買ってますけど、今日は もう帰ります。見るのは8レースまでって言われたので。今日は、色々と教えていただきありがとうございました」
春香がペコリと頭を下げると、男性は ニッコリと笑った。
「よせやい。照れるじゃねぇか。嬢ちゃんは、良い勝負師になるぜ? 新人のアンちゃんの単勝にあんだけブッ込めんだからな」
「そうですか?」
男性は、また春香の頭にポンと手を乗せた。
「おう。腕の良い度胸のあるアンちゃんのレース見られて良かったしな。じゃあな、尻尾の嬢ちゃん。気を付けて帰るんだぞ?」
「はい、おじさん。また会えたら良いですね」
いつもなら言わないであろう言葉が、春香の口からスルリと出た。
「ん? そうだな。俺も、嬢ちゃんとは、また会える気がするぜ。じゃあな」
男性は手を振りながら、馬券売場の方へ向かって行った。
(尻尾……? あ、ポニーテールにしてるから……。良い人だったなぁ……)
店の常連では見ない雰囲気の人だったが、なぜか懐かしい感じがした。
(名前ぐらい訊いても良かったかも……。でも……本当に、また会える気がする……)
風で着けていた青いリボンがヒラヒラと揺れる。
足元では、捨てられているハズレ馬券が舞っている。
春香は、ポケットに手を入れて馬券を取り出して見詰めた。
(鷹羽さん、頑張ってたのにな……)
残念な気持ちと、12レースへの期待を胸に春香は出入口へと向かった。
しかし、立ち去り難 立ち止まると、ギュッと拳を握り締め振り返った。
(鷹羽さん、頑張って。そして、無事レースを終えて帰って来てください……)
春香は、雄太の初勝利を祈りつつ阪神競馬場を後にした。
全てのレースを終えた雄太、純也、梅野は、鈴掛が運転する車でトレセンへの帰路に着いていた。
助手席に座った雄太は、ずっと難しい顔をして黙っていた。
(勝てなかった……。もう少し……もう少しだったのに……。もっともっと腕を上げないと……。もうこんな後悔をするのは嫌だ……。俺は、もう騎手なんだから……)
鈴掛は、無言で中空を見詰めている雄太を横目でチラチラと見る。
後部座席に座っている純也は、隣に座っている梅野に小声で話し掛けた。
「ここまでガチ凹みしてる雄太は久し振りに見たかもしんないっす。足やった時は落ち込むってのもあったけど、焦ってイラついてたのが大きかった気がするんすよね」
「まぁなぁ〜。デビュー戦に対する意気込みは相当だったしぃ〜。周りの期待もハンパなかったしなぁ〜」
梅野も小声で話す。
(雄太も純也も良い騎乗してたんだがなぁ……。まぁ、デビュー戦でポンと勝てる程甘くないってのは、今まで散々言い聞かせて来たんだが、ここまで落ち込むか……。この顔付きは 春香ちゃんの事を考えんじゃないってのは分かるが、さすがに空気が重いぞ。今度は、梅野に車を出させよう……)
鈴掛は、小さく溜め息を吐いた。




