562話
風呂を終え、年越し蕎麦を食べる時になっても、春香の目は赤くなったままだった。
(ママって、やっと言ってもらえたんだもんな。嬉しいだろうな。俺だって泣きそうになるぐらい嬉しかったもんな)
凱央には、まだ蕎麦は早いだろうという事で、細めのうどんが用意されている。
「ンマンマ〜」
「ちょっと待ってね」
小さなプラスチックの丼を凱央の前に置くと、春香が両手を合わせる。その姿を見て、凱央も手を合わせた。
「いただきます」
「マママウ」
「ちゃんと出来て偉いね〜」
フォークを上手く使いながらうどんを食べている凱央を見ていると、また春香の目が潤んだように見えた。
「はい、雄太くん」
「ありがとう」
目の前に丼を置かれると出汁の香りがフワッと広がる。
「いただきます」
汁をゴクリと一口飲み、ハァ〜っと息を吐いた。
「美味い。これこれ。年末が来たぞぉ〜って気になるよな」
「だよねぇ〜。普段から、お蕎麦食べるけど、年越し蕎麦って何か違う気がするよね」
今年は、大きな海老の天ぷらとしっかり味のしみた油揚げ。京都に買いに行った放し飼いにしているという鶏の玉子に、庭で育てている葱。
「この玉子、美味いな」
「うん。販売してるおじさんがね、卵かけご飯で食べると違いが分かりますよって言ってたの。でね、食べてみたらすごく美味しかったんだぁ〜」
「え? 卵かけご飯……?」
「うん。炊きたてご飯で……え?」
雄太がしょぼくれた顔をする。
「俺……卵かけご飯食べてない……」
「え? ちゃんと『食べる?』って訊いたよ?」
「マジ……? 全然覚えてない……。いつ?」
「えっと……有馬記念の四日後。私が、『京都まで玉子買いにいくね』って言ったのは覚えてる?」
「それは覚えてる。『平飼いしてる鶏の美味しい玉子が売ってるから買いに行ってくるね』って」
雄太は記憶を探りながら答えた。
「うん。で、買ってきたその日に夕飯の前に訊いたよ?」
「えっと……俺、覚えがないんだけど……」
「ん〜。そんなに食べたいなら、また買いに行ってくるね」
「ああ」
蕎麦を食べながら、なぜ訊かれた覚えがないのか考えてみる。
(俺が春香の話を流し聞きするとか……。あ……、思い出した……)
年明けの騎乗依頼をもらって自宅へ帰ろうとしている時、梅野に会ったのだ。
「なぁ、雄太ぁ〜。最近さ、ファンの女の子達の間で変なのが流行ってんの知ってるかぁ〜?」
「はい? 変なの……ですか?」
梅野が言うには、これでもかっ‼ と言うぐらいに香水をつけて、好きな騎手に体を密着させて写真を撮るのが当たり前だと豪語する女性ファン達がいると言うのだ。
たまたま買い物に行こうと寮を出たらファンが待ち構えていて、高かったジャケットに香水の匂いがつき、車の中にも充満して買い物を断念する羽目になったと他の騎手に話したら、『それ流行ってるらしい』と聞かされたのだ。
(もし、そんな事になったら、春香に浮気をしてると疑われるかも知れないだろっ⁉ 冗談じゃないぞ)
そんな事を真剣に考えていたから、聞き逃していたのだろう。
「どうかした?」
「ん? 何でもないよ。次は卵かけご飯食べるぞぉ〜」
「うん」
ニッコリと笑う春香が、悲しい涙を流すなんて考えたくもない。浮気を疑われるなんて考えたくもない。
春香と付き合う時に直樹に言われた言葉が脳裏に過る。
『理不尽な事で泣かせないと……決して、春を裏切って傷付けないと誓ってくれ』
(春香を泣かせる事はしたくない。それでなくても気苦労かけまくってんだから。俺は、笑ってる春香が好きなんだ。今日みたいに、嬉し涙が見たいんだ。変な流行りなんて、さっさと廃れてくれよ)
日々、落馬の心配をかけて、周りへの気遣いや悪質なファンがいる事で気苦労をかけている。
(はぁ……。来年も色々春香に苦労かけるんだろうな。それでも、春香の笑顔が見たい。春香と夢を叶えるんだ)
1990年が後数時間で終わる。
1991年も実りの多い年にしたいと思う雄太だった。




