550話
中山競馬場 10R 第24回スプリンターズステークスG1 15:2 5発走 芝1200m
何度も何度も聞いたファンファーレが鳴り響く。ドキドキと胸が高鳴る。
(雄太くん、頑張ってね)
凱央を膝の上に乗せて、ジッと硝子の向こうを見つめる。凱央は、お気に入りのぬいぐるみを両手に持ち振り上げている。
「パッパ〜、パッパ〜」
「パパの応援しようね」
「ウォアゥ〜、パッパ〜」
次々とゲートに馬が入って行く。緊張感が最高潮に達し、ゲートが開いた。
ガシャンっ‼
ゲートが開くと、雄太はどこにいるのかと姿を探す。雄太は後方集団の内ラチ沿いにいた。
3コーナー、4コーナーを過ぎても、後方にいる雄太に必死で声援を送る。
「雄太くんっ‼」
「パッパ〜。パッパ〜」
直線コースに入っても、雄太は馬群の中にいた。何頭も馬が雄太の馬の前に壁のようになっていて、バラけてくれない状態が続いた。
(雄太くんっ‼ 諦めないでっ‼ 最後までっ‼)
そう思った時だった。どこにも隙間がないように見えた状態だったのに、馬群の中から白いヘルメットが動きだした。
「え? ま……まさか……」
大河内の口から驚きの呟きが漏れる。
グングンと雄太の馬が加速し始める。春香の目は真ん丸になり、次の瞬間凱央を抱いて立ち上がった。
「雄太くんっ‼ 頑張ってっ‼」
馬群の中から完璧に抜け出すと、更に加速をしてゴール板を駆け抜けた。しかも、レコードタイムの赤い文字が点った。
「勝ったぁ〜。凱央、パパが一番だよ」
「パッパ〜」
喜びはしゃぐ春香達を見ながら、大河内は力なく椅子に身を沈めた。
(な……何なんだ……? どうやってあの馬群をすり抜けた……? 横から見てた訳じゃないぞ? 上から見てても団子だったじゃないか……。鷹羽雄太……。末恐ろしい騎手だな……。一瞬の判断であの馬込みを抜けてくるとか……。まだ若手だぞ……? 確かに結婚もして子供もいるが……)
目の前で起きた出来事なのに、何が起きたのか理解が出来ず呆然としていた。
(あんなのを目の前で見せられたら、儂の馬が負けたとか関係なく、称賛せざるを得ないな)
「本当に良いレースを見せてもらった。あんな騎乗されたら何も言えん。完敗だ」
「はい。鷹羽雄太は自慢の夫ですから」
満面の笑みを浮かべる春香と凱央の姿に、娘と孫を見ているような温かい気持ちが胸いっぱいに広がる。
「そうだな。春香くんの人生を単勝一点賭けするぐらいの男だしな」
「はい」
頬を赤らめ嬉しそうに笑う春香と、祝勝会でキリッとした顔で多くの人のいる中で土下座をした春香が同一人物に思えなかった。
「鷹羽さん。こちらに」
「あ、はい。じゃあ、大河内様。今日は本当にありがとうございました」
係の人が呼びにきてくれたので、春香はマザーバッグを手にした。
「ああ、またな。言っとくが、次は儂の馬が勝たせてもらうぞ?」
「大河内様の馬も強くて格好良かったです。でも、雄太くんは負けませんから」
「なら、鷹羽雄太に騎乗依頼出さないとな」
「ですね」
大河内が右手を差し出し、春香がそっと握る。
父親の手を握った記憶のない春香はは、大きく優しい手に父親の温もりを感じた。
「凱央、おじちゃんにバイバイは?」
「ン」
凱央が小さな手を振ると大河内の目尻が下がりまくる。大河内は凱央の頭を撫でて、人差し指で頬をつつく。
春香はもう一度頭を下げ、マザーバッグを係の人に持ってもらい馬主席を後にした。
大河内は春香の背を見送り、ドスンと椅子に座り込んだ。
(ハァ……。全く何なんだよ……。あんな団子状態の中から出てこられるなんて思わねぇぞ……。クソ。儂の馬が優勝して、春香くんと一緒に口取り写真に納まって、坂野と月城にドヤってやりたかったのによぉ……。ははは)
忍び笑いをして、大河内は残っていたコーヒーを飲み干して、まだ沸き立っている観客席を見下ろした。
(よし、こりゃ本腰入れて鷹羽雄太に騎乗依頼出さないとな)
ニヤリと笑って、大河内も馬主席を後にした。




