545話
ハーティが用意してきた果物を食べ切ると、雄太は鼻面を撫でた。
「ハーティ。元気でジャパンカップ走れよ? また、差し入れしにくるからな?」
ハーティはユルユルと尻尾を振って応えたが、元気があるようには思えなかった。
何とかジャパンカップまでに気力が戻ってくれればなぁ……と雄太は思いながらもう一度撫でた。
春香は少し淋しそうな顔をしてハーティを眺めていて、凱央は触りたいとアピールする事もなく大人しく眺めていただけだった。
「じゃあ、行こうか?」
「うん」
何とも言えない気持ちで三人は藤波厩舎を後にした。
ゆっくりと坂道を下りながら、歩いていると、冷たい風が吹き抜けていく。
無言だった春香がホッと息を吐いて小さな声で話し出した。
「……ハーティ元気なかったね。カームがいつも元気だったから、そう思っちゃうのかも知れないけど……」
「そうだな。まだ天皇賞の疲れが抜け切ってないのもあるのかも知れないけど」
「人も歳を重ねると疲れが取れにくくなるから、馬もそうなるのかなって思うんだけど……」
春香がハーティの体を案じているのが伝わってくる。
(春香がハーティと仲良くなりたいのは、ハーティにも伝わっていると思うんだけどな)
馬は人の感情に敏感だとも言われている。春香の一生懸命さはハーティも分かっていたとは思うが、それ以外の何かがあるのかは分からない。
「春香」
「なぁに?」
「馬にも色んな性格の奴がいるんだ。皆が皆、カームのように人懐っこかったりする訳じゃない」
「え? あ……」
雄太の言いたい事を春香は理解した。
「……うん、分かってる。どの子もカームのように懐いたり心を開いてくれるなんて思ってないよ。ハーティに好かれなかったからって気にしてないから」
「そうか? なら良いけど」
『分かっている』と言いながらも、やはり春香が淋しそうに見える。
「ジャパンカップ、頑張ってくれたら良いね。それで、良い感じで有馬記念に出てくれたら嬉しいな」
「そうだな。俺も、引退レースの背中を任されたんだし、勝って花道を飾ってやりたいって思ってる」
「うん」
並んで歩いていると、どこかに出かけるのか車が徐行して窓を開け手を振ってくれたりする。
「あ、先輩だ」
雄太が手を振り、春香が頭を下げる。
通りにある店の人も会釈をしてくれたりして、春香はこの町の人達が自分を受け入れてくれた事が嬉しくなる。
だからこそ、ハーティが傍に来てくれもしなかったのが淋しく思えてしまっていた。
(完全に拒絶された訳じゃないとは思う……。尻尾は振ってくれたし。でも、警戒してたのかな……。もっと早く……雄太くんが安田記念に出る時に会えてたら変わってたのかも……)
一部ファンからの批判を恐れていたから『ハーティに会ってみたい』とは言えなかったのだ。自分が批判されるなら良い。その矛先が雄太に向くのが嫌なのだ。
嫌がらせの手紙だけでなく、『ハーティを勝たせてくれてありがとう』と熱心なハーティファンから手紙をもらった事があった。
(ハーティを好きな人だって、悪意を持ってる人ばかりじゃないんだって分かってはいたけど、勇気が出なかったんだよね……)
春香の中で堂々巡りが続く。
『勇気があれば……。でも、雄太くんに……』
何度繰り返しても正解は出ない気がした。
「春香、今夜は鍋にしないか?」
「え? あ、そうだね。何が良いかなぁ〜」
「凱央が食べられる豆腐とか入ってるのにしようか?」
「うん」
「じゃあ、早く帰って買い物に行こう」
雄太は、ベビーカーのハンドルを持っている春香の手を握る。
雄太の手の温かさと、さり気なく話題を変えてくれた事が嬉しかった。
「雄太くん」
「ん?」
「……大好き」
突然の言葉に雄太は目を丸くした後、春香の髪を撫でた。
「俺も春香が大好きだからな」
「えへへ」
雄太の言葉と笑顔が勇気をくれる気がした春香は、真っ直ぐに強く前を向かなくてはと今まで以上に思った。




