544話
11月5日(月曜日)
前日の菊花賞で勝てず悔しい思いをした雄太だが、来年への思いを強く固くしていた。
(来年は、春香にサイン書いてやらないとな)
角を挟んで左側で、凱央に朝食を食べさせている春香を見る。
「凱央、美味しい?」
「ンマァンマァ〜」
「そっかぁ〜」
親バカ、嫁バカと言われても、この時間は最高に雄太の癒しである。
「凱央、今日はお馬さんを見に行くんだぞ」
「ウ?」
「そうだ。凱央の好きなお馬さん……ん?」
「今……馬って言いかけた? まさかね」
「ママより馬が先ってのは……さすがに、なぁ?」
二人揃って凱央をジッと見る。雄太も好物のオボロ豆腐をマクマクと美味しそうに食べている。
「パパが先は良いけど、ママより先に『馬』は……ちょっと悲しいかも……」
「だよ……な?」
二人は顔を見合わせて苦笑いを浮かべた。
✤✤✤
「こんにちは。お邪魔します」
朝食を終えた三人は揃ってトレセンに向かい、藤波厩舎を訪れていた。
数日前……
「藤波調教師。今度の月曜日、ハーティに会いたいと妻が言い出しまして……。許可いただけますでしょうか?」
「え? 奥さんが……か?」
散々、ハーティファンに怖い思いをさせられたのに、ハーティに会いたいと言う理由が藤波には分からなかった。
「ええ。妻は、ハーティは悪くないからと……」
「ハーティは悪くない……か」
ハーティの出走予定は後二つ。ジャパンカップと有馬記念。しかも、雄太が騎乗予定は有馬記念のみ。
それでも、春香はハーティに会ってみたいと言ったのだ。
「うん、分かった。良いよ。当番の厩務員には言っておくよ」
「ありがとうございます」
雄太は深く頭を下げて、藤波厩舎を後にした。
✤✤✤
藤波厩舎に着き、当番の厩務員に声をかけて馬房に向かう。
「ハーティ。元気にしてるか?」
雄太が声をかけても、ハーティは軽く尻尾を振るだけで、こちらを見ようとしなかった。
「こんにちは、ハーティ」
春香が声をかけた。チラリと目線を向けたが、相変わらず壁のほうを向いている。
「えっとね、ハーティが好きだって聞いたリンゴとバナナを持ってきたんだけど食べない?」
春香はタッパーからカットしたリンゴを手にしながら話しかける。顔は壁に向いているのだが、耳がピコピコと動き、尻尾を揺らしている。
「ん……。やっぱり負けがこんでて、元気がないみたいだな……」
「うん……」
強い強いと言われていたハーティが一度負けたぐらいでへこたれるとは藤波は思っておらず、馬主も『まさか……な』と言っていたと聞いた。
何が、ハーティの心に影を落としたのだろう。
「ハーティ。私からが嫌だって思うなら雄太くんに食べさせてもらってね? 私、ハーティに元気になってもらいたいの」
聞こえてはいるのだろう。春香が声をかける度にユラユラと尻尾を揺らしているのだ。
諦めた春香は馬房から少し離れた。
「雄太くん、お願い」
「分かった」
春香はベビーカーのハンドルに手をかけ、タッパーを雄太に手渡した。
いつもなら、馬を見てはしゃぐ凱央も何かを感じているのか、大人しくハーティを見ていた。
「ハーティ、食べるよな?」
雄太が馬房に近づいてリンゴを持つと、『仕方ないなぁ……』といった感じでハーティは体の向きを変えてノロノロと雄太に近づいた。
「ほら、リンゴだぞ?」
クンクンと匂いを嗅ぐとボリボリシャクシャクとリンゴを噛った。
「美味いか? バナナもあるぞ」
ハーティは出されたバナナもモグモグと食べた。
(良かった……。食欲があるなら安心だ)
「次、ジャパンカップだろ? もう少し馬体重増やしたほうが良いからって、調教師から許可もらってるからさ」
もう一つバナナを口元に持っていってやると、モグモグと食べている。
「しっかり食べろよ? 俺、ハーティに頑張って欲しいんだ」
一生懸命に声をかけるが、ハーティは我関せずで、モグモグと果物を食んでいた。




